じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 文法経講義棟の南側に咲くオキザリス・バリアビリス(写真上)。25年以上前に、某教員が通信販売で購入した球根を寄贈したものであるが、生育環境に適していたため、その後ずっと生育し、同じ花壇にある別の植物を移植した時に球根がくっついていたりして、移植先の別の花壇でも繁殖しているところがある。
 写真下は大学構内とは別の場所で見かけた白色の同種。


2019年3月15日(金)



【連載】唯識の科学性(2)人間と独立した世界(2)

 昨日の続き。

 「人間と独立した世界」をどう捉えるのかについては、実在論に基づく方法論的行動主義の立場と、機能的文脈主義の立場があるが、話が別の方向に進んでしまうためここでは立ち入らず、今回はもう少し別の角度からこの問題を考えてみることにしたい。

 ここでいきなり私自身の経験に話題が移るが、私は、定年退職後、早くも終活の一環としてプリント写真やネガのデジタル化の作業に取り組んできた。まだデジカメやスマホが無かった時期に撮影したプリント写真(私が生まれた頃のモノクロ写真から1990年代前半の子育て時代までの)をスキャナで読み込みjpegファイル化する作業である。

 この作業に取り組んでいると、過去のいろいろな思い出がよみがえってくるものだが、とくに懐かしく感じるのは、子どもの頃に毎日遊んだ生家の庭の写真である。この庭はその後の家の建て替えの際に殆ど消失しており、今や地球上のどこにも存在していない。また、庭の写真を見て懐かしく感じるのは私のみであり、私が死ぬと同時にその写真の存在価値はゼロになってしまう。

 とにかく重要なことは、今の地球上のどこにも存在しない「生家の庭」が今なお私の行動に何らかの影響を与えているという点である。影響を与えている以上は、私にとってはそれは存在し続けているのである。

 長男が小学生の頃には当時流行のスーパーファミコンで一緒に遊んだことがあった。ファイナルファンタジーとかドラクエなどのRPGの世界もまた私自身にとっては「存在する世界」の1つであった。「生家の庭」のほうはもはや直接関わることができない過去の世界であるが、RPGのほうはその気になればいつでも関わることができる。「実在」の世界であってもバーチャルな世界であっても、そこで何かの行動をして、その行動に結果が伴うという点では何ら変わらない。

 以上に述べた「生家の庭」や「RPGゲームの世界」は、いずれも「実在」の世界から派生したもの、あるいはアナロジカルに構成されたものであるが、私の行動に影響を与えているという点では紛れもなく存在していると言える。これは「外的」とか「内的」ということとは別次元の議論である。

 要するに、我々が関わる世界というのは、人間と独立した世界を根本の土台にはしているものの、恣意的に構成された人間社会、過去の出来事を記録した写真アルバムの中に広がる世界、RPGのように人工的に作られた世界などが多様に混在している。昨日も述べたように、これらすべての世界が生きがいを与えてくれたり苦悩をもたらしたりしていることに目を向ける必要がある。じっさい、ある研究によれば、人が目の前のことを考えている時間は53%で、残りの47%の時間はマインドワンダリングにふけっているというから相当なものである。

 不定期ながら次回に続く。