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楽天版(3/14付け)に掲載したように、半田山植物園ではハクモクレンの開花が進んでいる。これに対して、岡大構内の花の名所の1つでもある本部棟近くのハクモクレンは今年は蕾が殆どついておらず(てっぺんの枝にチラホラ)、華麗な一斉開花は見込めない。 今季のハクモクレンがほとんど開花しない原因としては、強度の剪定、病害虫が考えられる。但し枝そのものは枯れておらず、新芽はついているようである。 |
【連載】唯識の科学性(1)人間と独立した世界(1) 少し前になるがNHK「こころの時代で シリーズ「唯識に生きる」(初回放送2017年4月〜9月)の再放送をやっていた。 3月12日の日記にも書いたように、私は子ども時代から根っからの無宗教ではあり、輪廻、霊魂、極楽浄土などの世俗的な仮想概念は全く無意味であると思っているが、唯識の思想には結構興味を持っている。社会構成主義とも共通点がありそうだ。阿頼耶識(あらやしき)というのも、内的構成概念のレベルで語られるとそんなものあるもんかという気になるが、少し見方を変えて「ある種の反応の起こり方」であるととらえるなら認知行動療法にも通じるところがあるような気がする【←あくまで、無教養な長谷川の直観的推測】。 そんななか、シリーズの5回目では「唯識の科学性」というテーマのもと、横山紘一先生と東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構の大栗博司先生(理論物理学者)の対談はなかなか興味深い内容であった。 対談ではまず横山先生が「唯識」を
「心」とか「表層」とか「深層」という構成概念による説明は私にとっては受け入れにくいところがあるが、これらすべてを「ある種の反応の起こり方のタイプ」やそれらの相互作用というように翻訳すれば、ああそういうことか、と結構納得できる部分がある。 これに対して大栗先生は、 ...その心しかないということは、だから心の外には世界はないというそういうことですよね。その科学の方法で自然とか、この世界を理解する時には、外に世界がまずあるということを仮定して、それでその世界がどういうしくみで働いているかというのを理解していこうとしているわけですよね。ですから、心しかないとするとですね、そうするとじゃあそこに対してどういう、それからどういうことが分かっていくんだろうかと…。という疑問を投げかけられた。 この疑問を含めて、もともと理系人間であった私はほぼ99%、大栗先生の御主張のほうを納得し、横山先生のお話は失礼ながらどうしても胡散臭い話であるように思ってしまうところがあった。とはいえ、世界をどう捉えるかについては、「人間と独立した世界は確かに存在し、人間はその世界と非恣意的な関係で関わっている」ということさえ前提にすれば、唯識も社会構成主義的な考えも結構当たっているのではないかとうのが私の今の考えである。 「人間と独立した世界は確かに存在する」というのは地球の歴史を見ればすぐに分かることだ。ヘウレーカ!の話にも出てきたように、地球の歴史を1年間に喩えて地球の誕生を1月1日午前0時0分とすると、恐竜の繁栄と絶滅は12月11日〜26日、そして人類が出現したのは12月31日午後8時12分になる。1月1日午前0時0分から12月31日午後8時12分までの出来事が人間と無関係に推移してきたことは明らかであろう。 しかし、上記の「1月1日午前0時0分から12月31日午後8時12分までの出来事」というのはあくまで人間によって語られた世界である。人間に無関係に存在する世界を100とすると、人間が語ることのできる世界はそのうちの0.5%くらいであって、残り99.5%については何も語れないかもしれない。何も語れないということは、何も影響しない、何の関わりも持てないということであるからして、存在しないと言っているのと同じことになる。 但し、人間が語る世界というのは、人間が好き勝手に構成した世界ではない。もちろん世界は科学者から詩人まで、さまざまな形で語ることができるが、何かを働きかけたり予測したりするために有効な語り方を追求するというニーズのもとでは、非恣意的な関係、つまり物理学や化学などの法則性に従わざるを得ない。自分は鳥だと思って羽ばたく真似をしたところで地球の引力に逆らうことはできないのである。 また、上記の「人間の語ることのできる世界」の比率は科学の発展によって0.5%から0.6%、0.7%...というように拡大することができる点にも留意する必要がある。私が子どもだった頃に比べると、地球や宇宙の歴史や生命の起源についての知識は格段に広がり、かつ精緻化されている。 ということで自然科学に限って言えば非恣意的な関係のしがらみから逃れることは不可能であるが、我々が生活している人間の世界は恣意的な関係に満ち満ちており、同じ社会に暮らしていても世界の捉え方は多様となり、何が正しいとか間違っているかということを非恣意的関係に基づいて証明することはできなくなる。人間の苦しみについても、生理的な反応としての痛みなどは非恣意的だが、人間関係に関する苦しみの大半は恣意的関係のもとで生じたものと言える。 不定期ながら次回に続く。 |