Copyright(C)長谷川芳典 |
先日の京都旅行のさい、京大・本部構内にちょっとだけ寄ってみた。写真上は、構内で見かけた屋外禁煙の掲示と、時計台裏にあった喫煙所(赤い円内)。 京大は教職員層ばかりでなく、反体制的な勢力においても喫煙率が高く、全面禁煙化の実施は全国の大学の中でも最後になるのではないかと思っていたが、一定の前進は見られるようである。 写真下2枚は、ほぼ同じアングルから撮影した昔の写真。いずれも雪景色となっているのは、雪が積もった時のような珍しい光景にならないと写真を撮らなかったためである。 |
【連載】 世界禁煙デー協賛企画(2)禁煙化は「人種差別」という屁理屈 昨日の続き。 禁煙化を推進する動きに対しては、喫煙擁護派の人たちからさまざまな反論が寄せられることがあるが、その論拠は支離滅裂であり、どうみても屁理屈としか思えないものまである。 定年退職前にこの問題について議論があった時にも、ある管理職クラスの教員が、 ●自分は喫煙者である。喫煙者は、(ニコチン依存の)病人である。だから、病人のために喫煙所を作って欲しい。 というような発言をされていた。私にはなぜ「だから」で繋がるのかが理解できなかったが、要するに、 ●喫煙者は病人でありニコチンを必要としているので、そのニコチンを補給しやすくするための喫煙所を設置することが病人を助けることになる。 という「論理」であったようだ。この例に限らず、タバコ以外の諸問題では理路整然と主張をされるような方が禁煙化の話題になると突然、屁理屈をこね出したり、また人格者として尊敬を集めている人が建物の裏で隠れ喫煙をしたり、というように、ニコチン依存はきわめて根が深い。 私がたまたま耳にした屁理屈を例に挙げると、
こうした屁理屈に対していちいち反論するのは時間のムダであると思われるが、1つだけ「禁煙化は人種差別」についてコメントさせていただく。この発想は、「吸う人も吸わない人も」という喫煙擁護派のスローガンと同根であり、要するに、いまの世界に住んでいる人を「喫煙人」と「非喫煙人」に固定化し、両者の合意形成をはかろうとするものである。しかし、言うまでもなく、人間は生まれた時はみな非喫煙者であり、100%が非喫煙人である。そのうちの一部が、何らかの経緯でタバコを吸い始め、ニコチン依存に陥っているのである。ゆえに、喫煙者をあたかも1つの人種であるように固定するのは誤りであり、喫煙者と呼ばれる人たちは、「非喫煙の健康体に復帰すべきニコチン依存者」と見なすべきである。 このWeb日記でも何度か述べたことがあるが、例えばベンチに座って談笑中、友だち(あるいは恋人)がタバコを吸おうとしたとする。そのさい、喫煙を許すという寛容な態度をとることが友情や思いやりであると考えるのは大間違いである。本当に相手のことを思うのであれば、直ちに喫煙を止めさせ、禁煙を説得することであろう。恋人に禁煙の説得をすると嫌われるのではないかと恐れる人もいるかと思うが、恋人の真摯な願いを聞き入れられないような相手であれば早めに別れたほうがよい。もちろん禁煙になかなか踏み切れない場合もあるが、それをサポートすることこそが恋人の役割であり、そこに本当の愛情が生まれるように思う。 次回に続く。 |