じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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「いま、ここを生きる」動物と、「過去や未来のしがらみのなかで生きる」人間の図式化。↓の記事参照。

2019年10月16日(水)



【小さな話題】
終末期の心と行動(1)

 現職時代からずっと、毎年1〜2回、「高齢者の心と行動」という演題でお話をさせていただいてきた。特命教授として担当する講義を除けば、これが定年退職&隠居人宣言後で唯一、人様の前でお話しする機会となっており、まもなくその日となる。

 毎年の話はほぼ一貫しており、強化子(好子)の出現により行動が適切に強化されている状態を保障し、かつ、高齢者の心身機能の衰えに配慮して、「高齢者が自ら行動し強化される」ように強化機会を適切に準備する形で支援するという内容が中心となっている。

 もっとも、「自ら行動し強化される」というだけであれば、高齢者施設にパチンコ台やゲームセンターを設置して、朝から晩まで遊んでもらうだけでも十分ではないかという議論が出てくる。これについては「喜びの量が同じであればプッシュピンは 詩と同じように良い(喜びに優劣はない)」というベンサムの主張もあるいっぽう、高級な「喜び」低級な「喜び」の区別は可能とするジョン・スチュアート・ミルの主張もあるが、私自身は、より包括的で継続性のある形で強化されるほうが、個々バラバラの行動が強化されるよりもお得であるという論じている。【ちなみに、パチンコは依存性があるので「継続性」の条件を満たすが、生活全体のバランスを考えると、包括的には強化されていないと言える。】

 ここまでは従来の復習、ここからが本年度の改訂版となるが、改訂版の第1点は、過去や未来をもう少し重視したらどうかという点にある。少し前の又吉直樹のヘウレーカ!「独り言をつぶやくのはなぜ?」でも言及したことがあるが、人間と人間以外の動物の本質的な違いは、
  • 動物は、「いま、ここ」を生きる。その瞬間瞬間に対応して行動している。
  • 人間は、「過去や未来のしがらみ」のなかで生きる。
 上掲の図はそれらの違いを模式化したものである。
 ここで念のためお断りしておくが、動物にとっても人間にとっても「出来事」自体は「いま、ここ」にしか存在しない。
  • 動物にも見られる条件反射は、現前の刺激の機能が変わったためであって(例えばブザーの音を聞いてヨダレを出す)、過去の体験を思い出しているからではない。
  • 動物が未来の変化を予測して反応しているように見えるのも、現前の手がかり(弁別刺激)によって反応の起こり方が異なるからにすぎない。(青信号で渡る、赤信号で止まるのは、現前の青や赤が弁別刺激になったからであって、将来の変化を予測しているわけではない。)
  • 人間における「過去や未来のしがらみ」と言っても、過去や未来から、タイムマシンで「出来事」の刺激が運ばれてくるわけではない。
  • 「過去の出来事」や「未来に起こりそうな出来事」は存在しない。それがリアルに見えるのは、あくまで言語的機能により、関連づけられているからに過ぎない。これは人間特有。
でもって、「いま、ここ」の行動に過去の出来事や未来の可能性を言語的に関連づけることについては、メリット、デメリット両面がある。
  • 「いま、ここ」を過去に関連づけることの、
    • メリット:よき思い出を回想する。過去から累積した成果に基づいていまの行動の価値を高める。
    • デメリット:嫌な出来事を思い出す。後悔する。
  • 「いま、ここ」を未来に関連づけることの、
    • メリット:目標をめざすことにより、「いま、ここ」の行動の価値を高められる。目標達成の進捗状況を確認できる。目標に向けて行動が継続しやすくなる。迷いがなくなる。
    • デメリット:先のことを思い悩む。
とはいえ、我々は、過去や未来について、自分に都合のよい部分だけを関連づける能力は持ち合わせていない。こうした関連づけは勝手に派生されるものであり、過去のよき思い出を回想しようと思ったら、過去の嫌な体験が次々と浮かんでくることもあるし、将来の夢を描こうとすればするほど先のことを思い悩む恐れも出てくる。ま、このあたりは、個体差があり、万人共通の理論というのは無いようにも思う。

 高齢になって「いま、ここ」でできる行動が限られてきた場合、例えば、寝たきり状態で自由に体が動かせないような状況になった時には、それなりの条件が揃えば、写真やビデオなどの過去の映像データを活用したり、昔訪れた懐かしい場所をGoogleストリートビューで再訪するというような、回想の機会をもっと増やしてもよいように思う。

 また高齢になると、未来志向にも限界が出てくる。それを救ってくれる手段の1つは宗教であるが、私のような無宗教者は別のかたちで終末期に対処する必要がありそうだ。

 次回に続く。