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終末期における「随伴性」の想像図。クリックすると変化の様子が分かります。↓の記事参照。 |
【小さな話題】 終末期の心と行動(2) 昨日の続き。高齢になるにつれて、
一般的に言えることとしては、まずSOC「(補償を伴う選択的最適化、Selective Optimization with Compensation)」という考え方がある。近年、センサーやロボット技術、またバーチャルな映像提供技術などの進歩はめざましく、寝たきりの状態になっても、かなりの程度で「能動的な行動→強化」という機会を保障することができるようになってきた。 次に、自分あるいは家族が癌宣告を受けた時はどうすればいいか。2年ほど前の行動分析学会年次大会で述べたことを再掲すると以下のようになる。
終末にさらに近づいてくると、おそらく、「いま、ここ」、「過去」、「将来」の図式は次第にバラバラとなって、上掲の一番下の図(サムネイルの図と同一)のように変化していくと思われる。要するに言語反応による関係づけが錯乱状態となりしだいに希薄化していく。これが果たして泥沼でもがくような状態なのか、それともカオスの中の恍惚状態なのかは、その時になってみないと判らない。 では、どうすれば「泥沼」ではなく「恍惚状態」を保てるのか? ひとつの手立ては、やり残したことを後悔せず(←やり残さないに越したことは無いが)、生きることに執着せず、「もういいよ」、「これでよい」といった充足感に浸ることであろう。私は子どもの頃から一貫して無宗教であるが、方便や現世利益といった非科学的で胡散臭い部分を取り去った上の、本質的な部分には耳を傾けるべき教えが含まれているとは思っている。とはいえ、終末期は人生のほんの一部に過ぎない。そのほんの一部のために若い頃から宗教活動に身を投じたり、修行の日々を送るよりは、健康の時にできることを精一杯やったほうが良いようには思う。 人生最後の日は最高の一日であるべきか、それとも、人生最後の日というのは、閉店セールが終わって店の中が空っぽになったような静穏な状態(もしくはこんな状態)でよいと見なすか。このあたりはさらに考えてみる必要がありそう。 |