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下松サービスエリア(下り線)で見かけた、林隆雄さんの作品。子年ということで、借り物ではあるが、2020年の最初の写真とさせていただく。 |
【小さな話題】新年の所感 今年の正月も、いつものように妻の実家のある北九州で過ごしている。 長年Web日記を執筆してきた私としては、Web日記で新年の所感を述べることが、いちばんお正月らしい過ごし方ということになる。 定年退職から1年9ヶ月が経過し、日々の生活もだいぶ隠居人らしくなってきた。2019年は、毎日の生活スタイルがほぼ固定し、夕方の散歩時(ほぼ50分)には、近隣の半田山植物園通いが続いた。半田山植物園への年間入場回数が185回というのは、隠居人でなければ達成できない記録かと思う。神社仏閣へのお参りと異なり、半田山植物園には何度通ってもごりやくがあるわけではない。しかし、植物園内の石段や坂道を一気に登ることで結果的に心肺機能が鍛錬され、モンゴル最西端アルタイ山脈トレッキングでも無事に歩き通すことができたし、西チベット一周旅行でも高山病にならずに済んだ。また、風邪で寝込むこともなかった。健康診断や認知症検査の結果でも、これまでのところ異状は出ていない。 ま、そうは言っても、年々老化が進んでいることは間違いない。かつて1.5だった視力は0.8前後まで低下しているし、何本かの歯はいつ抜け落ちても不思議ではない状態。記憶力もかなり衰えてきた。 もっとも、だからといって、アンチエイジング的なトレーニングに時間をかけたいとは思わない。そういう手段的な行動のために自分の時間が奪われてしまうのは本末転倒である。上記のウォーキングも、いろいろな自然に接することができるからこそ継続しているのであって、屋内のマシンで歩いたり走ったりするのであれば同じ時間でも全くムダであるように感じる。要するに、「時間の無駄」と感じない範囲で、健康寿命延伸のための最低限の努力はするが、それ自体が目的化してしまったのでは何のための人生なのか(長生きするために努力するだけの人生なのか)分からなくなってしまう。 「じぶんとは何か」についても考えが変わってきた。最近よく思うのは、じぶんというのは別段、この人類の中で特別の存在でも何でもない、地球上の生命体の1つに過ぎないということである。「じぶん」というのは視点の取り方から生じる特殊な感情であってそれ以上でもそれ以下でもない。また、「じぶん」が唯一無二の固有の存在であるように見えるのは、生まれてからのヒストリーがそうなっているからにすぎない【であるから、「じぶん」もすべての他者も、唯一無二で固有の存在であるという点ではその程度に違いは無い】。 もっとも、じぶんが地球上の生命体の1つに過ぎないからといって、ちっぽけで取るに足らない存在であることにはならない。きわめて自己満足的になるが、人生を振り返ってみて「それなりに頑張ってきた」と感じられれそれでよし。死神とかくれんぼして、死神から「もういいかい?」と言われた時に「もういいよ」と返事できる程度の充足感があれば、生に執着することも無かろうと思う。 この自己満足的な充足感を得るためには、あまり欲張らないことが肝要だ。若者にとっては大きな夢をいだくことは大切だろうが、私のような隠居人は、欲張れば欲張るほど未達成ばかりになって、「あの望みは叶えたかった」という残念の海に溺れながら死んでいくことになる。 ではどうすればよいか。1つは、衰えの程度に合わせて、興味対象を減らしていくということだ。そういう意味では「補償を伴う選択的最適化(selective optimization with compensation=SOC)」という発想は大切かと思う。 あと、「いま、ここ」を生きることも大切だが、高齢者の場合は、過去の良き思い出に浸る機会や、(身体的に困難があっても参加できるような)バーチャルな世界で新たな体験を重ねる機会があってもよいのではないかと思う。昨年はずいぶんいろいろなところを旅行したが、今年は、旅行資金が枯渇してきたこともあり、少しずつバーチャル空間(最新のテクノロジーはもちろん、小説や映画なども含む)に関心を向けていこうかと思っている。 |