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もともとCM嫌いの私であるが、箱根駅伝の中継の合間に流れていたCMの中に、印象に残る作品がいくつかあった。1つは、auの「みんな自由だ」篇。日本の昔話の代表的な人物が自由に動き回っているところも、歌詞もなかなかよい。もっとも、最初は、これが何のCMなのかさっぱり分からなかったし、これを視てauに契約しようという気にもならなかった。このほか、サッポロビール「第96回箱根駅伝用オリジナルCM」の女性編もなかなか良かったが、これを視てビールを飲みたくなることは無かった(というか私はアルコール類は一切飲まない)。
なおネットで検索したところ、auではこれまでにも、日本の昔話の人物を取り入れたCMを放送していたようであったが、私は一度も視たことが無かった。じっさい、平日早朝に放送されるテレ東の経済番組以外には民放のTV番組を視ることは滅多に無いので、いかに素晴らしいCMがあろうとも私の目に触れることはない。 |
【小さな話題】「それなりに頑張ってきた」という充足感は、「じぶんはダメ人間である大明神」を「信仰」するなかでしか得られない 1月2日と3日の2日間にわたり箱根駅伝(東京箱根間往復駅伝競走)の中継を観た。優勝争い、シード権争い、区間賞など見所はいろいろあるが、箱根駅伝の場合は、順位はどうあれ、あの大舞台で走るということ自体が、子どもの頃からの夢を実現させたことになっているように思えた。とりわけ、1年から3年の時に怪我で苦しんだり補欠に回されていて、最終学年の4年目に初めて出場し、しかも良い結果を出してチームに貢献できたような選手にとっては感激もひとしおであろう。また、中には、自分の人生の土台の半分以上が駅伝によって築かれたと語る高齢のOBもおられた。 こういう選手たちの生き方に私の人生を対比させてみるに、私なんぞはずいぶん早い時期、高校生の頃にすでに、夢を持たない、いじけた人生観を身につけてしまっていたことに気づく。年頭の所感のところで、 きわめて自己満足的になるが、人生を振り返ってみて「それなりに頑張ってきた」と感じられれそれでよし。死神とかくれんぼして、死神から「もういいかい?」と言われた時に「もういいよ」と返事できる程度の充足感があれば、生に執着することも無かろうと思う。と書いたところであるが、その中の「それなりに」というのは、より正確に述べれば、「じぶんはダメな人間であるが、ダメであるという前提のもとで、それなりに頑張ってきた」という意味である。要するに、私のような者は、いくら理想を追い求めても達成不可能なことがある。もっと身の程をわきまえて、できる範囲で最大限の努力をすればそれでよい、ということであった。 もっとも、すでに隠居人の身になって改めて若い頃を振り返ってみると、「じぶんはダメ人間である」のさらなる前提となっている「自分は、どうやっても理想を実現できるほどの資格はない」という前提、そしてそのまた前提となっている「理想」が、本当に至高の理想であったのかは疑わしく感じるところがある。しかし、もし今の時点で、「あの理想は間違っていた。こういう理想を掲げていればもっと頑張れたはずだ」と考え直してみたところで、もはややり直しはきかない。このさい、いくつかの前提のハシゴはそのままそっと架けたままにしておき、「じぶんはダメ人間である大明神」を「信仰」していくほかはないように思う。まことに奇妙なロジックになるが、「それなりに頑張ってきた」という充足感は、「じぶんはダメ人間である大明神」を「信仰」するなかでしか得られないのである。 |