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1月18日からのセンター試験に備えて、文学部前には受験生向けの掲示板が設置され、多くの受験生が下見に来ていた。 来年度からは新テスト(大学入学共通テスト)が計画されているため、今回が最後のセンター試験(大学入試センター試験)になるようだ。浪人すると来年度は試験内容が変わって不利になる恐れがあるため、一部の受験生では安全志向(確実に入れる大学を含めて多数の大学を受験する)が高まっているという。 新テストや記述式問題に関しては昨年11月に隠居人的独り言を述べたことがあるが、私は現行のセンター試験は十分に役割を果たしており、もし不足があれば各大学が個別学力試験で対応すればそれでよいと考えている。私が赴任したころからずっとそうだったが、大学教育や入試というと、中身はどうあれ「とにかく改革が必要」、「改革しなければ生き残れない」といった「改革至上主義」、もしくは「大学改革教」がまかり通っており、中には、看板(学科や専攻の名称)をすげ替えるだけであったり、複数の部局の教員を1つの組織にまとめて形の上だけの学際性をアピールするような動きもあった。 センター試験に求められるのはけっきょく、
記述式に関してリンク先に書いたことを再掲すると、以下のようになる。但し、あくまで隠居人の独り言に過ぎない。
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【小さな話題】立松和平さんと「少欲知足」 土曜日の朝食時に、 NHK映像ファイル あの人に会いたい「アンコール 立松和平(作家)」 を視た。 立松和平さんについては、以前テレビによく出ておられたのに、最近は全くお見かけしないと思っていたら、なっなんとすでに10年前に多臓器不全でお亡くなりになっていた。62歳没というから、私の方がすでに5年も長生きしていることになる。リンク先によると、テレビでお見かけしなくなったのには、「1993年、作品『光の雨』で「盗作事件」を起こし社会問題となり、それ以後テレビ出演等が急減した」という背景があるらしいが、小説界に全く無関心の私にとってはそういう話は初耳であった【今回の番組でもそのことには触れられていなかった】。 番組の中で興味をひいたのは「少欲知足」という言葉である。これは、団塊世代による富の追求に対するアンチテーゼの一環として使われているように見受けられた。なお、「少欲知足」の代わりに「小欲知足」という表記が使われる場合もあるようだが、「欲少なくして、足を知る」と書き下すのであれば「小」ではなく「少」のほうが妥当であるようにも思われる。 この考え方の解釈については、仏教の宗派や学者の中でも多少の差違があり、また、仏教と道教の融合とする見方もあるようだ。 専門的なことは全く分からないが、「少欲」というのは「禁欲」ではない。我々が生きていく上ではどうしても必要なものがあり、それを得るための欲まで否定してしまっては死んでしまう。但し、あまりいろいろなモノは欲しがらず、すでに得られているものに満足すべし。ちなみに玄奘は「知足」の代わりに「喜足(足を喜ぶ)」という訳をあてたという。 「少欲」というのは、欲望の量を控えめにせよという意味では必ずしもない。いろんなモノを欲しがってばかりだと、本当に必要なものは何かということが分からないままに一生を終えてしまう。そうならないためには、日頃から欲望の対象を取捨選択し、これぞ自分が求めているという対象だけに集中すべきであるという意味にもとれる。さらには、私のような隠居人においては、「じぶんはダメな人間であるが、ダメであるという前提のもとで、それなりに頑張ってきた」という自己満足的充足感【1月4日の日記参照】が、「知足」さらには「喜足」にもつながるように思える。 |