じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 少し前に放送されたブラタモリで、浜名湖のウナギの話題が取り上げられた。今回の上京時に新幹線の車窓から浜名湖東部のウナギ養殖地帯を注意して見ていたが、露天の養殖池は殆ど姿を消し、代わりに太陽光発電のパネルが各所に設置されていた。リンク先のランキングが示すように、現在の静岡の養殖ウナギ生産量は全国4位まで低下しており、もはやウナギは浜名湖の特産品とは言えなくなっているようだ。なお、静岡県は都道府県別の日照時間ランキングでは、山梨、高知、群馬、宮崎に次いで第5位となっている。

2020年2月2日(日)



【連載】ブラタモリ「浜松〜なぜ浜松が楽器の町になった♪〜」

 1月25日に放送された表記の番組を録画再生で視た。

 ウィキペディアによれば、浜松市の人口は79万1442人(2020年1月)で市の人口ランキングでは全国16位。岡山市の71万9474人より7万人ほど多い。またリンク先で初めて知ったが、市別の面積ランキングでは、高山市に次いで第2位の広さとなっている。

 今回の番組では「浜松=楽器の町」というタイトルになっていたが、いくら楽器工業で世界のトップシェアを誇るといっても、それだけで人口80万規模の都市が成り立つとは思えない。ウィキペディアによれば、楽器のほか、繊維産業、ホンダやスズキの自動車・オートバイ産業でも知られているという。但し、オートバイは、現在は市内で完成車の製造は行っていないとのことである。

 番組の冒頭のあたりでは、林田理沙アナウンサーによるピアノの演奏があった。林田さんは「おはよう日本」でお顔を見かけるので人文社会系のご出身かと思っていたが、なっなんと東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了で、修論のタイトルはブーニン・シンドロームについての一考察 : 日本におけるショパン受容およびクラシック音楽文化受容の観点からであったという。

 そのあと、浜松で楽器産業が興った経緯について、
  • 家康による河岸段丘を生かした町づくり
  • 綿花の栽培(三大産地の1つとなる)
  • 織機とそれを制作、メンテする大工
  • 外国製のオルガン導入(1887年)とその修理技術から生産へ
  • 山葉寅楠による国産ピアノ生産
  • ピアノに使う南アルプスの木材の調達と、乾燥に適した空っ風の気候
  • ピアノの木工技術から戦闘機のプロペラ、さらに金属加工技術を生かした金管楽器製造
というようなステップで、浜松の楽器産業の歴史が分かりやすく解説された。

 もっとも、立地条件がそろっているだけでは産業はおこらない。候補地がいっぱいある中で、なぜここに決まったのかといった原因には、個人の力や、偶然的要因もあったはずだ。今回の話題について言えば、和歌山県に生まれ大阪の医療器具店に勤め医療器具の修理工として働いていた山葉寅楠が1884年に浜松支店に駐在、1887年に浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)アメリカ製オルガンの修理を手がけたことからその構造を学び、1888年に日本最初の本格的オルガンの製造に成功したという。なので、もし山葉寅楠が浜松支店駐在を命じられていなかったら、あるいは小学校のオルガンが壊れなかったら、いまの浜松市の楽器産業は存在しなかった可能性が高い。
 同じことはホンダについても言える。本田宗一郎は静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)の生まれ、いろいろな経験を積まれたのちに1946年、浜松市に本田技術研究所 (旧)を設立している。
 なお、今回の番組はもっぱらヤマハの工場での取材であったが、日本の楽器産業が、ヤマハとカワイとの切磋琢磨の中で世界トップレベルに成長したことは間違いない。そのカワイの創業者河合小市もまた、浜松市菅原町の生まれ。河合小市は11歳で山葉寅楠のもとへ弟子入りし、ここから寅楠に目をかけられて成長。1916年に、恩師である寅楠が死去した際には、30歳の小市は泣き通したというエピソードもある。その後、1926年にはヤマハの技術部門の最高責任者の技師長へと上りつめていたが、労働争議を発端に天野社長が日本楽器会社を辞任するのを機に自身も退職し、翌年1927年、寺島町自宅に「河合楽器研究所」を設立した。この退職の詳しい経緯についてはよく分からないが、もし労働争議がなければ、河合小市はヤマハの要職にとどまっていたはずで、楽器産業はヤマハの独占となり、「ヤマハとカワイの切磋琢磨」という成長のエネルギーは生まれなかったかもしれない。