じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 各種報道によれば、6月16日午前8時40分ごろ、江戸川区船堀の都営新宿線船堀駅前の公衆トイレで、手洗い用の液体せっけんを使った男性から「手がピリピリする」と区に連絡があった。担当者が、液体せっけんが入るポンプ容器の形状が区が設置したものと違うことを確認、警視庁葛西署が中身を確認したところ、強酸性の液体と判明した。
 このニュースは6月17日朝の各局のニュースで伝えられたが、私が気になったのは手洗い場の左端に放置されていたタバコの空き箱と白い紙コップのような物体である。私がチェックした限りではこれらが写っていたのはFNN系のニュースのみであった。犯人に繋がる重要な手がかりとなる可能性があり、ぜひともDNA鑑定により容疑者を割り出してほしいところだ。
 なおこちらの連載で何度も指摘しているように、喫煙者の中には、タバコの吸い殻や空き箱を平気でポイ捨てしたり、この写真のように放置する人間失格者が少なくない。喫煙習慣自体は薬物依存であり喫煙者はタバコ関連業界の犠牲者であって決して悪者ではないが、吸い殻や空き箱のポイ捨てはニコチン依存とは無関係であり、こうした傍若無人の振る舞いは断乎として撲滅しなければならない。これらの行為に対しては、吸い殻1本につき1万円、空き箱1個につき10万円といった厳罰で対処すべきである。


2020年6月17日(水)



【連載】こころの時代「敵対と共生のはざまで」(2)ウイルス研究への経緯

 昨日に続いて、6月13日に放送された、NHKこころの時代

「敵対と共生のはざまで」

についての感想と考察。

 山内先生のリモート出演が20分ほど続いたところで、いったん休憩、そのあとは、山内先生の生い立ちやウイルス研究に取り組むようになった経緯が紹介された。

 山内先生は子ども時代は必ずしも理科系ではなく、旧制高校でドイツ語を学んだ時は、カール・ブッセ「山のあなた」のドイツ語原文に魅了されたり、また東京大学入学後(理科二類)1年目は結核で1年間休学、軽い症状だったので自宅でドイツ文学の本を読みあさったという。ドイツ文学に描かれる自然の暮らしぶりへの憧れから、復学後は農学部獣医・畜産学科に進学された。人を相手にする医学部進学は考えていなかったが、結核になる前は理学部人類学も考えておられたという。

 農学部の家畜細菌学は医学部の細菌学と同じことを研究しており、当時ウイルス学は細菌学の一部門に過ぎなかったという。医学部の細菌学は人間の細菌やウイルスの研究が主体だが、農学部のほうは範囲がずっと広かった。

 山内先生は大学卒業後は北里研究所に就職、そこで天然痘ワクチンの製造と改良研究に取り組んだ。当時、大陸からの帰還者の中に天然痘患者があり、大量にワクチンを作る必要に迫られた。その後、ワクチン研究の最前線で研究を続けておられたが、よく知られているのは牛疫ウイルス撲滅への取組である。山内先生によれば、牛疫ウイルスはローマ帝国東西分裂のきっかけになった【ウシの全滅により飢饉が発生】ほど人類の歴史に影響を与えたが、2011年に撲滅。これは1980年の天然痘についで2例目であり、ヒト以外の動物では初めての快挙であった。

 これらを振り返って、天然痘や牛疫のようにウイルスが脅威であることは間違い無いが、このことと研究対象としてのウイルスは別である。「脅威ではあるが敵対するものではない」というお考えに至った。

 ここからは私の感想になるが、山内先生を含めて、研究の最前線で活躍しておられるような方は、御専門の研究領域だけでなく、文学や語学でも相当な才能をお持ちの方が多いようにお見受けする。おそらく、アナロジーやメタファー、多様な言語反応の繋がりなどが独創的な研究を生み出しているように思われる(最も有名な例としてはレオナルドダビンチが挙げられる)。
 山内先生は一般読者向けにも多数の単著を執筆しておられるが、これらもまた、幅広い文学的素養に裏付けられたものと言えよう。
 いっぽう、残念ながら私自身にはそのような能力はなく、高校時代には文学作品にも一定の興味をいだいたものの、理系の受験勉強で精一杯で、小説を読む時間的余裕は全く無かった。大学進学時、その気になれば、応用生命科学系に進むチャンスもあったのだが、もし理系研究者を目ざしてもたぶん能力不足で途中で脱落していったと思われる。

 今回の番組の山内先生のお話に感化されてウイルス研究を志す若者が増えてくる可能性はあるが(←もっとも、「こころの時代」を視る若者はそれほど多くないかも)、私のようにすでに引退し、日々、記憶力や理解力が衰えつつある者にとっては、いまからやり直しができるというわけにはいかない。「じぶんはダメな人間だが、それなりに頑張ってきた」という自己満足的総括で人生を終えることにならざるをえない。


 次回に続く。