じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 6月16日の火曜日は半田山植物園が休園日のため、代替ウォーキングコースとして旭川土手を歩いた。梅雨入り後の連日の雨のせいかいつもより豊かな水量であるように見えた。

2020年6月16日(火)



【連載】こころの時代「敵対と共生のはざまで」(1)ウイルス独特の生と死

 6月13日に放送された、NHKこころの時代

「敵対と共生のはざまで」

についての感想と考察。

 番組では、半世紀以上にわたりウイルス研究と感染症対策にたずさわってきた山内一也先生(88)が2020年5月16日にご自宅(?)からリモート出演、御著書などからの文章や映像とを繋ぐという、新型コロナウイルス対策を意識した異例の構成になっていた。なお、この番組は6月13日早朝にごく一部をたまたま拝見、その後、NHKプラスで全体を視聴することができた。

 山内先生は、番組の初めのところで、ウイルスについて、
  • ウイルスは、私にとっては研究人生を通してパートナーだった。
  • 別に恐怖の存在ではない。
  • 多様な性質を持った存在である。
  • 最近も同じだが、ウイルスは見えないということもあって非常に面白い。年と共にウイルスの本体が分かってきて、いつまでたっても好奇心が絶えない対象として捉えている。
と語られた【長谷川の聞き取り・要約による】。新型コロナウイルスについては、
  • 免疫の無い状態のところに入ってきた新しいウイルスなので広がっても不思議ではない。
  • インフルエンザはもともと鴨が持っていた鳥類のウイルスだが、コロナウイルスはコウモリが持っていた哺乳類ウイルス。
  • コロナウイルスもインフルエンザウイルスもRNAウイルスだが、コロナウイルスのほうが2倍くらい大きい。RNAを数珠、数珠の1つ1つを文字に喩えると、インフルエンザは15000字、コロナウイルスは30000字の大きさになる。その分、コピーするときに変異が起こりやすい。
と指摘された。

 番組ではこのあと、ウイルス発見の歴史について御著書を引用したナレーションが入り、続いて、ウイルスと細菌との違いが説明された【長谷川の聞き取り・要約による】。
  • 多くの細菌は1000分の1ミリ程度、ウイルスは1万分の1ミリから10万分の1ミリ。なのでウイルスは電子顕微鏡でないと観察できない。
  • 細菌は原始的な細胞であり、増殖するのに必要な情報と機能を兼ね備えている。ウイルスも核酸を持っているが、代謝機構もエネルギー機構も持っていない。すべて他の生物の細胞の代謝機構を借りて子孫のウイルスを作っており、究極の寄生生命体と言える。
  • 普通の生物は細胞が2分裂して殖えていくが、ウイルスはタンパク質の殻に核酸が包まれている粒子で単なる物質にすぎない。しかし、ひとたび細胞の中に入れば完全に生き物となる。
  • ウイルスが細胞の中に入ると殻を脱ぎ捨てて核酸が出てくる。核酸の遺伝情報に従って核酸が複製され、新しくタンパク質が作られる。この「部品」の状態は感染性のないバラバラの物質に過ぎない【=暗黒期】。その後これらの部品が組み立てられると、再び感染力を持ったウイルス粒子となり外に飛び出していく。この暗黒期は、生物には見られないウイルス増殖に独特の過程。「親ウイルスが一旦忍者のように姿を消したあと子ウイルスが生まれる」
 ウイルスが生物かどうかという議論は少し前に放送されたヘウレーカでも取り上げられていた。ヘウレーカの番組では、宿主に脅威を与えるかどうかで生死を区別するというような見方も提示されていたが、山内先生はもう少し違った見方をしておられるようだ。
 山内先生ご自身は、ウイルスは生きているのか死んでいるのかについては、「ウイルスは生きている」と考えておられるようだ。「ウイルスは細胞に寄生しなければ増えない、自力では増えないから生物ではない」という議論については、生物学辞典の定義では「生命とは生物の属性である」、「生物とは生命活動を営むもの」というように循環論法になっていて答えが出てこない。生きていることについての定義は100以上も出されていて言葉の遊びのようになっている。このことからみて、生物の定義そのものは見直せばよく、生物か無生物かというような議論よりもウイルス生き物として捉えていけばよれでよいというようなお考えを述べておられた。

 ま、私のような凡人が考える「生と死」の概念というのは、親族や知人との死別を重ねることで形成されたもので、その思考の枠組みを、人間以外の動物、さらには微生物やウイルスにまで敷衍しようとしても擬人化の域を出ないことは確かであろう。逆に、生物学的な「生と死」の定義をそっくりそのまま人間の「生と死」に当てはめなければならない理由もない。私自身は無宗教であり、人間の死に宗教的な意味づけをしたり、霊魂や生まれ変わりを信じることを正当化するつもりはないが、いずれにせよ、我々がふだん考えている「死」というのは生物学的な死ではなく、その出来事に対しての意味づけ、解釈のかたまりであることは確かである。

 次回に続く。