じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 ベランダで置きっぱなしにしている風蘭(富貴蘭)が今年も花を咲かせた。過去日記によると、2002年頃に義母から貰った鉢物で、今年で18年目になる。育てる人がいれば、たぶん私より長生きするだろう。


2020年6月27日(土)



【連載】又吉直樹のヘウレーカ!「離れていても心は通じ合えますか?」(2)分身ロボットと「存在率」

 昨日に続いて、6月17日に放送された、

又吉直樹のヘウレーカ!:「離れていても心は通じ合えますか?」

についての感想と考察。

 番組の中程では、分身ロボット活用による出社、登校、参加の可能性が紹介された。分身ロボットについては2月9日2月25日の日記で取り上げたことがあった。今回は短時間であり、残念ながら活用場面は殆ど紹介されず、もっぱら観念的な意義が語られた。
  • 常時接続でその場に“参加”。テレビ電話は用が終われば切ってしまう。教室やリビングでは、用がなくそこに居たりする。用事がないときのコミュニケーションが大事。
  • 休み時間のような、「そこにいる」という状態をどうやってつくれるか。
  • 車椅子は体を運ぶ、分身ロボットは「心を運ぶ」。今までは体を運ばないと「出席」にならなかったが、分身ロボットで社会参加が可能。
  • 「存在率」:自分にとっての良い情報量を調整できる。顔を見て話す、人の前で話す、が苦手な人であっても、(自分を表現する)メディアを調整することで社会における自分の存在を調整するができるようになる。このように、距離感を調整できることがロボットの利点である。
  • (分身ロボットで)先に心を運んで居場所を作り、最後に体を運ぶという社会参加もあっていいのではないか。
というような内容であった【長谷川の聞き取りのため不正確な点あり】。

 2月9日の日記でも述べたように、分身ロボットは、体に障がいがあったり、対人場面が苦手だったりする人たちの社会参加を可能にするという点で大きな意義がある。私自身も、体が不自由になったり寝たきりになった時には大いに活用させていただきたいところである。

 「対人コミュニケーションにおける距離感の調整」とは別に、分身ロボットには、臨場感を高める可能性があるように思う。
 いまの時代、4Kや8K、あるいはネット配信での動画を通じて、世界各地の絶景を堪能することができるようになった。しかしそれらがいかに高画質であっても、自分がそこに居るという臨場感を得るのは難しい。おそらく臨場感というのは、その場で実際に前に歩いたり、後ろに戻ったり、視線を上下左右に移動させたりすることができないと得られないだろうか。
 この点、日々充実しつつあるGoogleストリートビューはまことに素晴らしい。試しに富士山頂付近に「出かけてみた」ところ、「お鉢巡り」がちゃんとできることが分かった。このほか、南アルプス縦走とか、いまは登山禁止となったウルル(エアーズロック)の疑似登頂体験なども、ある程度できるようになっている。
 もちろん、分身ロボットと異なり、ストリートビューでは現場に影響を及ぼすことができない。「すれ違った」人に話しかけても返事は帰ってこないし、路上に落ちている石ころさえ拾うことができない。「透明人間」ならまだその世界に働きかけることができるが、ストリートビューの世界の中での自分は、全く存在していないのである。いっぽう、分身ロボットでどこぞのバザールを訪れた時は、行動範囲は限られているものの、その場で買い物を楽しむことができる。

 今回の番組では「存在率」は、他者との関係における情報量の調整として定義されているようであったが、行動分析学的に言えば、ある世界における存在率というのはおそらく、自分がその世界にどれだけ働きかけられるか、そしてその世界をどれだけ変えられるかに依存している。要するに、行動を自発し、その結果として強化されるという「行動随伴性」をどれだけ多様に確保しているのかが存在率の基本であるように思える。

 いかに自分をさらけ出しても、誰からも相手にしてもらえない人は、存在感が得られない。これは、他者への働きかけが全く強化されていない状態である。隔絶された世界で、黙々と木を植えながら生活している隠遁者は、世間からは「存在しない」ことと同じであるが、「木を植える」行動が「木の成長」という結果によって強化されているので、その人自身の存在率を高めていることになる。

 念のためおことわりしておくが、「存在率」は、高ければよいというものではない。いくつか留意する点がある。
  • 世間から見て重要な存在であることと、その人自身が感じる「存在率」は同一ではない。例えば、国王になった人は、国民から見れば存在率が高い。しかしその国王自身が日々、儀礼的な行事ばかりに振り回されていて、「行動を自発して強化される」機会を奪われているとしたら、おそらく当人としては、国王というカプセルに幽閉されているだけで、カプセルの中に誰が入っていても変わらず、自分自身というオリジナルの存在率は殆どゼロであると感じるかもしれない。
  • 世間から注目を集めることは必ずしも「存在率」を高めることには繋がらない。稀に、世間から相手にされない人が、注目を集めるために犯罪を犯すことがあるが、それで存在率が高まることはあり得ない。
  • 隠居人の立場から言えば、終活とは自分を遺すことではない。自分を埋もれさせながら、次第に存在率を低めていくことではないかと思っている。


 次回に続く。