Copyright(C)長谷川芳典 |
2021年の「新年のご挨拶」サイトをこちらに開設した。リンク先にも記したように、私は、以前から葉書媒体での賀状交換を廃止しており、定年退職以降は、葉書をいただいてもお返事を出さないことにしている。 なお、妻は親戚や知人に葉書媒体の賀状を出しているが、今回は、枚数を前年の100枚から50枚に半減させた。 毎年、賀状には前年に訪れた海外旅行先の絶景写真を載せているところであったが、2020年は新型コロナの影響でどこにも出かけることができなかったため、丑年にちなんで、2018年のキルギス旅行の際に、ソン・クル(湖)で撮影した牛の写真を載せることにした。ツイッターのプロフィールと全く同じの、使い古されたものである。 |
【小さな話題】「じぶんは寄生虫」論 2020年も残すところ3日となった【29日起点】。例年、年末年始は、妻の実家のある北九州で過ごすことになっている。妻の実家には、孫たちもやってくるためとても賑やかになるのだが、今回ばかりは新型コロナの影響で帰省を取りやめることになった。 例年、この時期には、1年の総括や新年の所感などを述べることにしている。大したことは書いていないが、こういう時期でないと考えないこともある。特に「じぶんとは何か」などは、この時期限定の話題になりつつある。 今年の元日には、 じぶんというのは別段、この人類の中で特別の存在でも何でもない、地球上の生命体の1つに過ぎないということである。「じぶん」というのは視点の取り方から生じる特殊な感情であってそれ以上でもそれ以下でもない。また、「じぶん」が唯一無二の固有の存在であるように見えるのは、生まれてからのヒストリーがそうなっているからにすぎない【であるから、「じぶん」もすべての他者も、唯一無二で固有の存在であるという点ではその程度に違いは無い】。と書いたところであったが、最近は少し違う考えをいだくようになった。それは「じぶん」というのは「自分の身体に宿る寄生虫のようなものではないか」という発想である。もちろん、これはメタファーかつ思考のツールであって、最終的な結論ではない。「じぶんというのは寄生虫のようなものだ」と仮定した上で、「もしじぶんが寄生虫でないとするならそれは何か?」を考える。その「何か?」が明白になればそれが真のじぶんであり、何もみつからなければ、やっぱりじぶんは自分の体に宿る寄生虫であるという最終結論に至る。【以下、寄生虫としての自分自身を示す時には、平仮名で「じぶん」と表し、それ以外の意味の時は漢字で「自分」と表すことにする】 ここでお断りしておくが、「じぶんは寄生虫」論は、二元論とは異なる。二元論は「モノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方」であるが、寄生虫論は、ココロを寄生虫のように、身体に依存して生きながらえるものと考える。なので、身体が死に至れば寄生虫も消滅する。霊魂なるものはいっさい仮定していない。同じく、寄生虫はホムンクルスとも異なる。そう言えば、少し前に視たNHKのヒューマニエンスによれば、腸は自らが“考え”行動する臓器であり、腸が脳を支配しているとさえ言われている。私が唱える「寄生虫」も、脳ではなく腸の中に、腸内細菌と一緒に暮らしているのかもしれない。 では、「じぶんは寄生虫」論は、従来の人生観とどこが違うのか? まず、じぶんという寄生虫の寿命は、自分の身体の寿命の長さとは異なるという点である。自分の身体は、生まれた瞬間から死に至るまでであるが、寄生虫のほうはもっと短い。おおむね身体が4〜5歳くらいの時に誕生し、死ぬ少し前、「意識を失った」時に消滅する。認知症が重くなれば、その時点で部分的に機能を失っていることもある。 「じぶんは寄生虫」論は、じぶんが身体を支配しているとは考えない。自分の身体は生物的なメカニズムにより寿命のある間は活動を続けるが、じぶんがその活動に関与できる部分は極めて限られている。なので、身体の司令塔ではなく、身体に住まわせてもらっているだけのちっぽけな存在になる。自然災害や老朽化によって家が壊れれば中の住人は不便を強いられるが、それと同じように、身体の一部が失われたり、老化が進めば、寄生虫であるじぶんも不便を強いられる。しかし、そうした身体上の不都合は、じぶんそのものの不都合ではない。不都合の中にあっても、じぶんという寄生虫はそれなりに最善の生き方を追求することができる。 ということで、「じぶんは寄生虫」論は、身体に依存しつつも、身体から切り離された精神活動(実質的には刺激機能、反応の派生などによって構成される活動)のかたまりのようなものとしてじぶんをとらえるところに特徴がある。それによって何かメリットがあるかどうかは分からないが、自分が病気になった時に、じぶんと病身を切り離してとらえることができるかもしれない。 |