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気象庁のデータが示しているように、1月上旬の岡山は、最低気温が氷点下となった日が9回、1日の平均気温が氷点下となった日が2回【いずれも1月1日から1月11日まで】になるなど、2018年1月以来の寒さが続いている。 写真は、ウォーキングコース沿いのヒメツルソバ。暖冬の年であれば容易に冬越しするが、今回は寒さに耐えきれず、写真右のように無残な姿となってしまった。 |
【連載】又吉直樹のヘウレーカ!「なぜ人は“空気”を読むのか?」(2) 昨日に続いて、2020年11月18日放送の、 又吉直樹のヘウレーカ!「なぜ人は“空気”を読むのか?」 についての感想・考察。 番組では同調圧力の実験の紹介のあと、同調の理由として、
続いて、児玉先生のご専門である功利主義の観点から、コロナ禍のもとでの行動制限について、
このうち3.は、まさに「最大多数個人の最大幸福」の原則であり、好むと好まざるとにかかわらず、今回のコロナ禍でも実質的に適用されている。例えば、ヨーロッパのいくつかの国では、コロナの重症患者が多すぎて人工呼吸器が足りなくなった場合、高齢者よりも若者の着用を優先するという。若者を治療すれば快復後は国民の利益に貢献できるが、高齢者を快復させても国民全体の利益にはならないという考え方が根本にあるように思われる【高齢者のほうが予後が悪いという理由もあるが、建前だけのような気がする】。幸い日本では今のところ露骨な「若者優先」には至っていないが、医療現場では、医師が「この高齢者は人工呼吸器(人工心肺装置)をつけても快復の見込みがない」と判断することで実質的にトリアージが行われている可能性がある。 このほか、昨日、「新型コロナウイルスで重篤となった患者に、日本で開発された関節リウマチの治療薬「アクテムラ(トシリズマブ)」を投与することで、死亡率が下がったなどとする研究成果が公表された」というニュースが伝えられていたが、その研究成果というのは、 集中治療室の患者に対して抗炎症薬「デキサメタゾン」の投与など通常の治療をした場合の死亡率は35.8%だったのに対し、搬送から24時間以内にアクテムラ(トシリズマブ)なども追加で使った場合は27.3%まで低下した。というものであったというが、このデータからは、重症患者の中にはアクテムラが投与されていれば命が助かったのに、たまたま統制群(対照群)に割り当てられたために、その投与が認められずお亡くなりになったという方が8.5%おられたことが読み取れる。もし自分の近親者がそういう状況に置かれたら、少しでも命が助かる可能性があるなら何が何でもアクテムラを投与してほしいと願うところであるが、「最大多数個人の最大幸福」の原則から言えば、アクテムラを使用しなかった人たちのほうが死者が多いと言う事実を確認することで治療薬としての効果が確認されるので、そういう実証実験は必要であるということになる。 このあたりは、まだまだ議論があるところだが、私は、新薬開発、承認のプロセスにおいて、実験群と統制群に割り振って死者数の有意差を検証するという冷酷非情な方法が不可欠であるとは思えない。例えば、新薬開発前の段階で、従前の治療法で30%の死亡率が確認されていたならば、新薬開発の時点では患者全員にその新薬を投与し、従前の死亡率が20%に低下することが確認できれば(かつ重大な副作用がなければ)、その新薬を承認することは問題がないように思われる。これによって、統制群に割り当てられて犠牲になった患者さんの命を救うことができる。もちろん、新薬である以上、何の効果も無かったり、逆に死亡率を高めるという逆効果になる場合もありうるとは思うが、動物実験でじゅうぶんに有効性が確認したあとで実施する限りにおいてはそのリスクは極めて小さい。 少々脇道にそれてしまったが、番組の終わりのあたりでは、SNSにおける攻撃や同調圧力の問題が取り上げられていた。SNSは、多様な意見や少数意見を表明できる場でもあるが、逆に一方的な極端な主張が大勢の人たちに影響を与える場合もある。トランプ大統領のツイッター上での発言などがその例であり、分断や独裁を助長するツールにもなりうる危険もある。また根拠の無いデマが拡散する恐れもある、というか、すでにそういう事例も多数生じている。 番組の終わりのあたりでは、「SNSはしっかり空気を読んでいないと強い非難を受けることがある」ということで「空気」という言葉が再び登場したが、ここでいう「空気」というのは、他者を傷つけないように配慮するという意味で使われており、やはり本来の意味の空気とは少々違うように思われた。また同調圧力のもとで「水をさす」ことの効用についても説明された。 ということで、番組タイトルの「空気」からはかなり脱線した内容であるという印象を受けたが、同調圧力や功利主義については有意義な情報が提供されていたように感じた。 |