じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 「接写で楽しむ雑草の花」。今回はツタバウンラン。もともとはロックガーデン用の園芸植物として大正初年に導入されたが、繁殖力が強く、侵入生物のリストにも挙げられている。

2021年4月5日(月)




【連載】又吉直樹のヘウレーカ!#106「“なぜ”を愛していいですか?」その2

 昨日に続いて、3月24日に初回放送された、「又吉直樹のヘウレーカ!」:

#106最終回シリーズ この”なぜ”は止まらない!「“なぜ”を愛していいですか?」

の感想と考察。

 番組では「正しくても受け入れられない」という事例に関連して、又吉さんが、子どもの頃、サッカーの練習時に、「水を飲まないほうが体が鍛えられる」という俗説が広まっていたというエピソードが語られた。私自身も、「山登りの途中ではできるだけ水を飲むな、飲むとくたびれるようになる」と言われたことがあった。現在では十分な水分補給、塩分補給が推奨されているようである。

 続いて取り上げられたのが、科学と感染症との闘いであり、病気の原因や特徴が解明されていない時点では、さまざまな言説が飛び交う。今回の新型コロナでも、感染拡大初期にはさまざまな俗説がネット上に流れた【今なお、議論は続いている】。こういう状況のもとでは、分からないことを認める必要があり、決めつけをしてしまうと新しい事態に対処できなくなってしまう。

 続いて塚谷先生は、「科学の一番のよりどころはモノと事実。モノと事実はしっかりしている。その背景にある仕組を考える時に科学が介入してくるが、直ちに正しいことが見つかるわけではない」であると説いておられた。東京駅に隣接したKITTEの中にある学術文化総合ミュージアム インターメディアテクには、東京大学で使われてきた標本・実験器具・教材模型など7000点以上が展示されているが、標本の中には、採取時期、採取場所、正確な種名が分からないものがある。しかし科学技術の発展により、そうした標本の正体が解明されることもある。また現時点では分からないことも、モノさえ残しておけば、将来明らかにできる可能性もある。そういう意味でも、モノを残しておくことは大切であるというような内容であった。
 もっとも、すべての科学が、モノを拠り所にしているわけではない。行動の科学の場合は、モノではなく機能が研究対象となるが、博物館に展示されている動物の剥製をいくら分析しても、それだけで、その動物が生息時にどういう行動をしていたのかは分からない。もちろん、骨格、皮膚、牙や爪のような武器の有無はモノを通じて確認できるが、それがじっさいにどう機能していたのかは、モノそれ自体ばかりでなく、生息時の環境、獲物の種類、個体間の闘争や協力の有無などをもとに行動リパートリーを推測していくほかはないだろう。このほか、数学のように、モノに依拠しない科学もある。

 又吉さんは、科学について、「一番最初の科学の出発点って、別に科学と名づけるほどのものでもなくて、これってどういうことなんやろ? という好奇心やったと思いますよね。.....まずは自分が体感したこと、それを何か、独自の“物語”を作って理解しようとする人もいれば、ちゃんと、物語に逃げずにちゃんと解明していきましょうという人もいて、どっちも面白いと思う」と語っておられた。この発想は、おそらく、心理学の説明にもあてはまりそうだ。
 私自身は、科学の発展のもとは、技術の継承の効率化と一般化にあると思っている。スキナーも言っていたと思うが、産業革命以前の職人の技術は、もっぱら師匠から弟子へ、見よう見まねで伝えられていった。しかし、これでは一対一の教育のため効率が悪い。大勢の弟子に対して教育を行うためには、師匠から直接手ほどきを受けなくても、教科書を読むだけで仕組やコツを身につけられるように、技術を言語化、一般法則化していく必要があった。その際に重要なことは、それぞれのニーズに応じて、「予測と影響」の力を高めていくことである。
 個人レベルでの「なぜ?」という問いかけも、けっきょくは、「予測と影響」に関わるものである。既知の知識に基づく予測が外れた時には、「なぜ外れた?」という疑問が生じる。そこで、新たな法則を付け加えたり、場合によっては既知の法則体系を根本から組み替えたりして、より的確な「予測と影響」に達すれば、とりあえず「なぜ?」は解消されたことになる。このことの繰り返しが科学の発展ということになるように思う。

 次回に続く。