じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 「接写で楽しむ雑草の花」。今回は、ノボロギク。ウォーキングコース沿いでは、10メートル歩けば1株は見つかるほど繁殖している。黄色い筒状花で、蕾のように見えるがこれが開花状態。

2021年4月10日(土)



【連載】ヒューマニエンス「“死” 生命最大の発明」その1

 2020年10月開始のヒューマニエンス〜40億年のたくらみ〜は、2021年4月10日までの時点で
  1. 「オトコとオンナ “性”のゆらぎのミステリー」
  2. 「“聴覚” 世界をつかむ精緻な進化」
  3. 「“腸” 脳さえも支配する?」
  4. 「“体毛” 毛を捨てたサル」
  5. 「“嗅覚” 生命のバロメーター」
  6. 「“自由な意志” それは幻想なのか?」
  7. 「“指” ヒトとサルの分岐点」
  8. 「“思春期” リスクテイクの人類戦略」
  9. 「“目” 物も心も見抜くセンサー」
  10. 「“心臓” 心が宿る もう一人の私」
  11. 「“スリル” 限界を超える翼」
  12. 「“ウイルス” それは悪魔か天使か」
  13. 「“血液” 魔法の体液」
  14. 「“皮膚” 0番目の脳」
  15. 「“ダンス” ヒトはなぜ踊るのか」
  16. 「“死” 生命最大の発明」
  17. 「“がん” それは宿命との戦い」
という17のエピソードが放送されており、私自身は2.以降はすべて録画し、このうち13本はすでに視聴済なのだが、内容が濃いこともあって、備忘録や感想・考察を記す時間がとれなかった【こちらにまとめていく計画だが、なかなか追いつかない】。

 上記の17本の中でも、加齢が進む私個人にとって最も切実なテーマは、今回【4月1日初回放送】の「死」をめぐる問題であると言ってよいだろう。

 番組ではまず、死についての研究はそれほど進んでいないこと、その原因として、「死を経験した人はこの世にはいない。その人から聞き取りできない。」(東京都健康長寿医療センター研究所・遠藤昌吾先生)という点がある。いとうせいこう氏も、マルセル・デュシャンの言葉を引用し、「死ぬのはいつも他人。誰も体験できないままその周りを巡ることを続ける」と述べておられた。そう言えば、養老孟司先生も「死ぬのは必ず自分じゃない人。「死」は知り合いにしか起こらない。だから「死」は常に二人称。二人称の「死」は全然別で、これはまさに「死」だが、それは自分の死とは関係ない。自分の死はない。」と語っておられた。しかしそのいっぽう、「人は誰でも死ぬ」というのは経験的事実であり、これを否定する人はまず居ない。いま生きている人がすべて死ぬのかどうかは人類が滅亡するまでは確認できないが、哲学的な議論がどうあれ、いずれ自分は死ぬということを前提として日々の生活を続けていくことのほうが、自分は不老不死だという可能性を信じて生きていくことよりメリットが大きいことは間違いない。

 番組では続いて、死のプロセスというのがグラデーションである(この瞬間に死んだというような、はっきりした境目がない)という事例がいくつか挙げられた。
  1. 『墓地、埋葬等に関する法律』では、二四時間以内の埋葬・火葬の禁止が定められている。
  2. 死の三兆候(心拍の停止、呼吸の停止、瞳孔反応の消失)があっても完全に死んだわけではない。細胞レベルではまだ生きている部分がある。
  3. 2013年、イランで死刑を執行された人が、翌日、遺体安置所で息を吹き返した。【ネット情報によれば、この死刑囚は、その後、終身刑に減刑されたらしい】
  4. 脳死患者の測定データによれば、生命維持装置を外すと、心臓や肺はすぐに反応を停止するが、脳の神経細胞の活動は、外した時点以降逆に活発になり、反応が収まるのははるか後になる。
  5. 豚を使った実験によれば、死後4時間の豚の脳を取り出して人工血液と神経細胞を保護する薬剤を循環させたところ、前頭前野や海馬など一部の脳の活動が回復し最大6時間持続した。
  6. 【いとうせいこう氏】免疫学者の多田富雄さんの言葉「脳死の状態でも免疫は働いている」

 上記のうち、4.については、生命維持装置を外した後に上昇する神経活動は、脳が生き返ったことを示すものではなく、ちょうど、線香花火や終末期の星が最後の輝きを見せるようなものであり、神経細胞が死んでいくプロセスを示していると説明された。

 ここからは私の感想になるが、生と死の境目が瞬間ではなくグラデーションであるということはそれほど驚くには当たらない。一年生の植物が枯れる時の様子、あるいは、秋に紅葉が進んで落葉する様子などを見ても、それらは時間をかけて進行していくことが分かる。問題となりそうなのは、
  1. 死に至るプロセスが不可逆的であるかどうか。
  2. グラデーションのどの時点まで、意識(自分の状態を言語化する活動)が残っているか。
といった点である。まだ回復の可能性のある人が、脳死判定によって動いている心臓を取り出されてしまうようなことはあってはならないし、また、霊安室や棺桶の中でもまだ神経活動がわずかながら持続していたとすると恐ろしい気がする。
 もっとも、番組でもそのあとで取り上げられていたように、臨終間際にはエンドルフィンが放出されて恍惚状態になる可能性がある。また、死のグラデーションの過程で何らかの感覚があったとしても、それを言語化できなければおそらく苦痛としてもがき苦しむこともない【単なる「強い感覚」であって、苦痛にも快楽にもならない】という可能性はあるように思う。

 次回に続く。