【連載】まいにち養老先生の名言(2)「めぐる春」
2月1日に続いて、NHK-BSPで放送された養老先生の番組の感想。なお、私が録画しているのは、
- 【1月25日放送】まいにち 養老先生、ときどき まる「めぐる春」
- 【1月29日放送】レギュラー番組への道 まいにち 養老先生 ときどき まる「冬を仰ぐ」
- 【2月5日放送】レギュラー番組への道 まいにち 養老先生 ときどき まる「冬を送る」
の3本であり、視聴した順に感想を述べさせていただく。なお、2月1日にも記したが、養老先生の思想というのは理屈を演繹的に積み重ねて体系的に語られるものではない。番組の中でも時々語られているように、養老先生は、言葉の限界を説いておられるので、「養老先生の名言」というタイトルをつけたものの、その「名言」だけから思想が理解できるわけではない。以下、備忘録代わりに書きとめてみたが、養老先生のお考えを学ぶというより、語られた言葉に私なりに反応することで私なりの終活に役立てていきたい、というのがこの連載の趣旨である。なお、以下は、養老先生が語られたことの抜粋だが、一部省略や改変あり。
- 今の人はわりあい宗教というものを狭くとる。僕はしようがないから“宗教的なもの”、宗教的な“雰囲気”と呼ぶ。鎌倉に観光客が多いのは基本的には“雰囲気”で来る。
- 宗教体験は脳みその一部の働きと関係が深いと分かっている。「側頭葉」は昔からよく宗教の分野と言われている。例えば世界との一体感というのは、断食して滝に打たれた時に起こるし、実は脳卒中でも起こる。自分より“自分を超えるもの”をどうしても考えてしまう、感じてしまうから。
- 古い教会とお寺さんてそっくりだと思う。香を使う。音を使う。全体に暗く光が部分的に差すようになっている。...結局人が持っているもの、それを上手に引き出すというか、安定させる、そういう装置になっている。
- 意識は動かないものしか扱えない。それをあえて止めてああでもないこうでもないと言っている。
- 【結婚って何のためにする?】自分にとっての意味じゃない。社会と折り合っていく上での意味。
- 我々は自然といるとき答えを見ている。いろいろな計算もさんざんやって35億年の結果がこれ。だからよくできているはず。
- 何を発見したい?って、どうなっているかを見たい。なんでこうなっているのかは後で考えるわけで、まずどうなっているかを見る。
- 一時視覚野は9割が脳の中からの入力。脳の外からの入力は1割。見ているのは1割。9割は脳みその中のお互いの連絡。自分の都合で見ている。
- 人間のすることって理由があるのかね。後から付けるんですよ理由は。
- 【建長寺の虫塚の石碑に「塚にしたのは、すべてを言葉にすることができないからです」と刻まれていることについて、】現代の人は「言葉がすべて」と思っている。だけと言葉はやっぱり限度がある。いろんな思いがあるでしょう。
- 【自分の居場所がない、というお悩み相談に対して】世間にはまっちゃてる人っているんでしょうけど、僕は少なくともそう思ったことない。生まれてきたのは間違いないけど、なんでこんなところにいなきゃいけない?というのは普通にあること。それを普通にないことだと思うから悩む。「この世間にいて当然」という人は政治家になっています。「こっちは遠慮して混ぜてもらってます」、そっちのほうが多いんじゃないかな、言わないだけで。
- 【どうやって死にたい?という問いに対して】ああ、ないない。生きているだけですから。死ぬって別に特別なことじゃない。毎日しんでいるじゃないですか。意識なくなって寝ているでしょう。目が覚めなかったらそのまま死んでる。それだけのことでしょう。人生そういうものでしょう。「それじゃ不安です」という人がいるが、不安ってあって当たり前。あって当たり前とどのようにして付き合うか心得ていくのが成熟すること。今の人は不安だから消そうとする。消えませんわ、当たり前でしょう。折り合わなきゃいけない。あるものはしようがないでしょう。
- 死ぬのは必ず自分じゃない人。「死」は知り合いにしか起こらない。だから「死」は常に二人称。二人称の「死」は全然別で、これはまさに「死」だが、それは自分の死とは関係ない。自分の死はない。
- 【大切な人が死んでしまう時に耐えられるか?という問いに】そこが意外に考えないところ。つまり親しい人が死ぬということは、実は自分が変わるんですよ。だから変わった自分がなにを感じるかは分からない。【孝行がしたい時分に親は無し」というが、僕は違うふうに解釈している。
自分が変わったあとになにを考えるかは今の自分は気がつかない。変わるということが生きていること。いくつも人生を生きられる。同じ人生やっても面白くない。
- 学問は、学ぶと自分が変わる。そうすると前の自分が死んで新しい自分が生まれている。その経験を繰り返していれば、本当にある日死んだとしても別に驚くことはないだろう。
なお、この回では、養老先生の奥様でお茶の先生の養老朝枝さんも登場しておられた。
さて、ここからは私の感想になるが、1.から3.で語られた「宗教=雰囲気」観は私も同感。コロナ禍以前にはチベット各地のゴンパを訪れたことがあるが、無宗教の私であっても、雰囲気や景観には惹かれるとことがあった。
4.については、構造よりも機能、意識よりも行動というのが、徹底的行動主義の前提であり、その通りかと思う。
6.の「35億年の結果」もまさにその通りだと思うが、系統発生ばかりでなく、個体レベルにおいても、「行動は常に正しい」ということが言える。どんな行動も、強化の随伴性や生得的要因などが正しく作用した結果として生じている。
7.も重要であり、行動を分析する時にもまずは、どういうふうに行動しているのかを観察するところから始めなければならない。
9.の「理由の後付け」については、少し前のヒューマニエンス「自由な意志」の回で興味深い実験が紹介されていた。いずれ取り上げる理由。
12.から14.で語られていた死生観もほぼ同感である。これからの人生は、活動の束モデルでというのも同じ発想。但し、養老先生が言われるように「前の自分が死んで新しい自分が生まれる」というほど極端ではなく、活動の束が入れ替わるなかで少しずつ変わっていくと考えているところだ。
12.の「不安ってあって当たり前。あって当たり前とどのようにして付き合うか心得ていくのが成熟すること。今の人は不安だから消そうとする。消えませんわ、当たり前でしょう。折り合わなきゃいけない。あるものはしようがないでしょう。」というお考えは、ハリス先生のACTの紹介本とそっくりであるように思えた。
15.についても同様で、何かを学んだことで自分は変わることは確かだが、「生まれ変わる」というほど極端ではない。だからこそ、「じぶん更新日記」というヘンテコなタイトルで24年も日記を書き続けているのである。
番組で語られたお言葉を書きとめていたため、自分の考えを述べる時間が無くなってしまったが、とりあえず備忘録としておき、今後、様々な形で引用させていただこうと思っている。
不定期ながら次回に続く。
|