【小さな話題】最近視た番組から:清水眞砂子さん『己の影を抱きしめて』/ブラタモリ『日本の岩石スペシャル』
最近視たTV番組の感想。興味深いものが多く、執筆がなかなか追いつかないところだが、備忘録として簡単にまとめておく。
- 【4月11日 NHK-Eテレ】『こころの時代:清水眞砂子さん『己の影を抱きしめて』』【初回放送は2020年3月22日】
清水眞砂子さんは『ゲド戦記』の翻訳者として知られている。アニメの『ゲド戦記』は、直近では4月9日に日テレ系列で放送されていたが、美しい風景が描かれているものの、父親殺しに始まるストーリーの展開はイマイチ納得できていなかった。やはり原作にしっかり触れることが大切かと思う。
放送の終わりのところで、清水さんは、
【昔話がだいたいハッピーエンドに終わるということについて】昔話を語り継いだ人たちって、そんなに豊かな人たちではなかった。ある時、なんでハッピーエンドばかりなんだろう?と思った。語った人たちがそんなに幸せだったかというと、そうではなかっただろうと。相当、ある意味でみじめな生活をいっぱい体験してきた人たちだったんだろう、ということにふと気がついた時に、ああこれは祈りだったのかもしれないと思った。夢だったと言ってもいいかもしれない。子どもの文学というのはそこと非常に近いところにあるもので、別に子どもを元気づけようとか、変に元気づけようとする意図はイヤだが、でも、どこか根底に人間に対する信頼があったり、神に頼るしかないという、それくらいたっぷりと悲惨なことを味わった人たちが語り手の中にはたくさんいただろうという気がすると、やっぱりこれ祈りの文学なのかなあと思ったりする。そういう祈りを手放さなかった人間ってステキ、どこかで深いところで何かを信じているっていう力、ある時嬉しくなった。なによー作り話とか、こんな甘いこといってみんなが幸せになるはずないじゃん、とかそう思ったことがあるが、語り手はそんなことはとうの昔に知っていて体験していて、にもかかわらずああいうものを伝えてきた人間の力にだんだん気づいてきた。児童文学っていうのは、ある意味ではそういう精神がいちばん強く残っている、でているところ、人間への希望をこちらにもたせてくれる。ステンドグラスを通じて真っ暗闇に光りをあてるように、文学作品も、もう絶望的と思われるところにいやいやそんなに真っ暗じゃなくて、いろんなところにいろんな人たちが生きていて、色とりどりでそこに光りがあるということを伝えてくれる。子どもの文学ってステンドグラスみたいって、書いたことがある。そういうステンドグラスは、音楽の中にも美術にも人々の日常の仕事の中にもいっぱいある。そういうところをできるだけ見落とさないように、(イソップのカエルのように大きくならず)小さな視点で目を向けていく。
というように語っておられた【長谷川により一部改変、省略あり】。
- 【4月17日 NHK総合】ブラタモリ『日本の岩石スペシャル』
スタジオで過去の放送のなかから岩石に特化した話題を取り上げるというユニークな企画。紹介されたのは、
- 溶岩(富士山、伊豆大島)
- 松尾芭蕉の「岩にしみいる」ゆかりの山形のデイサイト凝灰岩
- 男鹿半島の溶結凝灰岩
- 京都・東山の花崗岩と白川に流れ出た白砂
- 香川県サヌカイトの癒やし音
- 和歌山県熊野地方一帯の景勝地(橋杭岩ほか)
- 愛媛県八幡浜のシュードタキライト
であった。極めてマニアックな内容であったが、これが土曜日のプライム帯に放送できるというのは、さすがタモリさんだろうと思う。これがもし、『又吉直樹のヘウレーカ!』で取り上げられていたとしたら、又吉さんはたぶんつまらなそうな顔で専門家の話を受け身的に拝聴するだけに終わってしまいそう。それにしても、タモリさんの地学の博識はスゴい。
紹介された過去放送はだいたい視聴したことがあったが、京都の白川の話題【2018年4月28日放送】はたぶん未視聴であり、京都の枯山水庭園が白川の白砂由来であるということは知らなかった。もし東山に花崗岩がなく、白川が流れ出ていなかったら、枯山水庭園は白砂ではなく、もっと黒っぽい色になっていたと思われる。
なお、番組では、銀閣寺、建仁寺大雄苑のほか、「じつは室町時代以降、京都のほぼすべての枯山水庭園で白川の砂が使われることになったんです」として、4庭園の写真が紹介されていたが、
- 金戒光明寺 紫雲の庭→2006年、植彌加藤造園により作庭
- 龍安寺方丈庭園→小堀遠州という説があるが作庭者・時期は不明
- 大徳寺瑞峯院独座庭→1961年、重森三玲により作庭
- 東福寺本坊庭園→1939年、重森三玲により作庭
となっていて、やはり、京都の魅力ある枯山水庭園は、昭和の偉大な作庭家、重森三玲の貢献が大きいように思う。
|