Copyright(C)長谷川芳典 |
|
昨日の日記で、文法経講義棟前にある公衆電話ボックスの電話機が撤去されていることにふれた。その後、ウォーキングの際に別の2箇所の電話ボックスを調べてみたところ、
|
【小さな話題】『プロジェクトX4Kリストア版』7月〜8月放送分 その3 トヨタ(2)、YS-11(1) 昨日に続いて、プロジェクトXの話題。 まずは、昨日に続いてトヨタの #137『われら茨の道を行く〜国産乗用車・攻防戦〜』 話題。 トヨタは戦後間もなく倒産の危機に陥ったが、国産乗用車の成功がその危機を救ったわけではなかった。番組によると1949年、東京GHQにやってきた経済特使のジョセフ・ドッジによってドッジ・ラインが実施される。これによりトヨタは銀行からの追加融資を得られなくなり、逆に借金返済を迫られた。給料が払えず、労働争議、人員削減、そして、国産乗用車開発を先導した豊田喜一郎は社長辞任に追い込まれた。 トヨタの倒産危機を救ったのは、朝鮮戦争特需であった。1950年7月、米軍から軍用トラック4000台の注文が入り、これにより国産乗用車開発が立ち消えにならずに済んだ。このトヨタの例に限らないが、日本の戦後の経済復興が朝鮮戦争の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない。 その後の岐路となったのは、当時の世界最大の乗用車メーカー、フォードからの業務提携の誘いであった。国内の自動車メーカー他社では、「日産自動車&オースチン」、「日野ヂーゼル&ルノー」、「いすゞ&ルーツ」というように外国メーカーとの提携が進み、また、当時の日銀総裁の一万田尚登は、「国力の無い日本には乗用車は無理。アメリカから買えばいい」と言い放ったという。そういう中で、トヨタはあくまで外国に頼らず自社開発を進めた。 番組で開発の中心人物として取り上げられたのは、開発責任者の中村健也氏であった。ウィキペディアにも記されているように「自宅には一万冊の蔵書があり、仕事が終わると一切の付き合いを断り、自宅でも研究に没頭した。」という技術一筋の人物であり、生産現場での困難が生じても設計変更という形では妥協せず、あくまで技術的な改善で解決を目指したという。番組の中で長谷川龍雄氏は、 優秀なエンジニアという者は1つの技術のテリトリーがあっただけでは威張れない。機械技術が専門であり、なおかつ電子技術が専門であるという2つあれば立派な技術者、3つあれば天下の技術者と評しておられた。 なお、中村健也氏は、その後も役員の要請を断り、研究に没頭した。晩年にはガソリンだけに頼らず電気も利用する走行システムを考案し、ハイブリッドカーの誕生に貢献したという。 国産乗用車開発に続いて取り上げられたのは、 ●【8月3日放送】#016『翼はよみがえった(前編)YS-11・日本初の国産旅客機』/#017『翼はよみがえった(後編)YS-11・運命の初飛行』 であった。国産乗用車開発と同様、国産旅客機もある程度の成功を収めたが、日本を航空機大国に押し上げる力は無かった。こちらの記事に記されているように、2020年10月30日、三菱重工業はSpaceJet M90の開発活動について「一旦立ち止まる」と発表した。2008年にMRJ(Mitsubishi Regional Jet)として開発をスタートした50年ぶりの国産民間機開発が事実上の開発凍結となったことを意味するという。リンク先ではYS-11についても、 しかし、1964年から1973年までの9年間に182機を製造したものの営業力の弱さ、価格競争力、不十分なサービス体制などが理由で360億円の赤字に至り、日本航空機製造は解散に至った。と評されており、むしろ失敗例とされている。但し、「最大手であるボーイングのプロジェクトに日本企業が加わることができたのは、YS-11を通して日本勢が航空機全体の開発・製造を行える実力があると認められたことがあった。」とも付け加えられている。 もっとも、コロナ禍が長引く中で、航空機の需要はさらに低迷すると予想される中、国産旅客機開発から退き、一部の部品生産に選択・集中したことは、結果的に、正解であったと言えるかもしれない。 次回に続く。 |