じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 用水路のザリガニ。私が子どもの頃は世田谷のドブ川にも推測していたが、生活排水が流れ込んでいてひどく不衛生であった。ウォーキングコース沿いの用水路は下水とは分離されており、水が澄んでいて、ザリガニやスジエビを観察することができる。


2021年9月2日(木)



【小さな話題】『プロジェクトX4Kリストア版』7月〜8月放送分 その4 YS-11(2)

 昨日に続いて、プロジェクトXの話題。YS-11開発の話題は、

 ●【8月3日放送】#016『翼はよみがえった(前編)YS-11・日本初の国産旅客機』/#017『翼はよみがえった(後編)YS-11・運命の初飛行』

というように2回にわたって放送された。開発のストーリーとしては必ずしも「感動的な成功談」とは言えないようにも思えるが、人物のストーリーとしてはなかなか興味深いところがあった。

 まずYS-11の名称であるが、ウィキペディアにも記されているように、「輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの」というから何とも味気ない気がする。

 この国産機開発は、通産省重工業局航空機武器課の赤澤璋一課長の主導で開始された。メンバーには、戦前・戦中に戦闘機の開発・製造にかかわった「五人のサムライ」が含まれていたが、番組では、三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した土井武夫と、ゼロ戦や雷電、烈風を設計した堀越二郎、ロケット戦闘機など新兵器の開発を任されていた元・東大教授の木村秀政に焦点が当てられていた。いずれも、戦後、航空機の製造・開発を一切禁止するというGHQの命令により、現場や教壇から追放され路頭に迷った。土井武夫はリヤカーや猫車の雪渓、堀越二郎は鍋釜、農機具などを作って生活していたという。YS-11の開発は、そうした戦前の航空機設計技術を継承し、日本の世界の一流国にしたいという願いがあったようだ。

 1957年5月1日に発足した輸送機設計研究協会には各メーカーから若手の技術者から派遣されたが、国産機の実現には懐疑的であり、駆け出しの若者が多かった。面白かったのは、上記の堀越と土井の衝突と、仕事の教え方の違いであった。車輪の格納方法をめぐっては掴み合いの喧嘩になったという。堀越は殆ど教えてくれず、自分で調べさせるというスタイル。いっぽう土井は、あらゆる若者たちの設計図にアドバイスし、独身寮で若者たちと一緒に暮らし始めたという。

 さて、国産機開発には莫大な予算が必要であったが、同じ頃には新幹線構想も出てきて航空機への関心は低く、政治家を動かす必要があった。そこで何と、予算獲得を有利に進めるために大ばくちに出た。土井は、予算の最終折衝までにホンモノと同じサイズの木製の模型を作って、政治家や有力者に公開した。制作費は5500万円、現在の10億円に相当する史上最大の模型であった。内部にはホンモノと同じような機器類やシートを配置した。不眠不休の作業の結果、1958年12月11日、ついに公開の日を迎えた(「Yokohama Sugitaで11日に会いましょう」)。この公開には、政界関係者500人が詰めかけていた。この公開が成功を収め、予算獲得に至ったという。
 この大ばくちはストーリーとしては面白いのだが、政治家を動かすだけの目的で、現在では10億円にも相当するという資金が使われたことについては疑問が残る。但し、この模型製作の過程で、若者技術者たちは、設計図面からどのような形にできあがるのかを体験できたことは良かったかもしれない。

 次回に続く。