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【小さな話題】Q〜未来のための対話 教えて!養老先生×落合先生(2)「人間らしい」ってどういうこと? 昨日に続いて、NHK Eテレで8月23日19時25分〜19時55分に放送された、 ●「Q〜子どものための哲学」に寄せられた「未来」についての疑問を先生たちにぶつける番組 についての感想と考察。 子どもたちから寄せられた2番目の疑問は、 あんり(12歳)の疑問:たとえばテクノロジーが発達して賢いロボットが何でもやってくれるようになると、そのぶん人間は時間ができていろいろなことができるようになるのではないかと想像している。私は、その与えられた時間で、ロボットにはできない「人間らしいこと」をやればいいと考えている。でもそもそも「人間らしいこと」って何ですか? ロボットが代わりにやってくれている掃除や料理は人間らしくないの? この疑問に対して養老先生は、 あんりちゃんは掃除や料理をそれだけのものと思っているが、でもそれはいろんなことで繋がっている。お母さんの子どもに対する愛情とか、家族に対する気配りとか、いろんなことが入っている。こういうロボットとかAIの話をすると、いろんなことが落っこちている。その落っこちたモノが人間らしいことじゃないですかね。また落合先生は、 人間らしい豊かな時間は、自分で時間を味わえる時間。皿を洗っている時、僕は非常に楽しい。ネコのウンチを集めている時も非常に楽しい。ロボットにやらせることもできるし、毎日ネコのウンチを捨てるのはめんどくさいのでやりたくない。たまにやるぐらいがちょうどいいことが、世の中に増えてくる。...あと、進歩のなさとか、失敗を繰り返している時、ああ人間らしいなぁって、よく思っているが、失敗を味わい深いものと受け止める心も大切。と述べておられた。 「人間らしいと思われる時ってどんな時ですか?」という問いに対して、養老先生は、 虫を捕ろうと思って天気のいい日に山の中を歩いている時。さもなければ捕ってきた虫を標本にしようと作業している時。いまやっていることに集中して、他に何もない無心な状態にある時。落合先生も、 夢中である瞬間は心地よい。ゆっくり過ごしている時もそう感じる。と答えておられた。 ということで、「先生たちのこたえ」としては、 いろいろな想いや感情。それが人間らしさ。相手のことを思いやったり、失敗して悩んだり、何かに夢中になったりすることが「人間らしさ」なお、以上の議論からの派生として、 ●いろいろな想いや感情のない未来のロボットは僕たち間をどこまで理解してくれるのだろう? という疑問が出されたが、養老先生は、 私がどこかにぶつかって痛そうな顔をしている時に、あの人痛そうだなあくらいはロボットでも理解できるだろうが、人間の気持ちはもっと複雑。複雑な状況の中で、どういう気持ちでいるのかを何でも理解してくれるロボットはできるでしょうか。僕はそういうロボットはひょっとしてできないんじゃないか、いや、作ってもあまり意味がないんじゃないか。なぜかというと人がいるから。と述べておられた。これについての落合先生の意見は番組では特には表明されなかった。 ここからは私の感想・意見になるが、まず、そもそも、当初のあんりちゃんの質問にあった、
養老先生が指摘されたように、掃除や料理といった行動は、単独の強化随伴性だけで維持されているものではない。さまざまな行動、あるいはそれによって派生する感情反応を含めて、大きな文脈の中で遂行されている。この日記でも何度かとりあげたことがあるが、例えば自転車通勤という行動は、その人が地球温暖化防止の一環としてマイカー通勤を止めているのか、それとも健康増進活動の一環として自転車通勤をしているのか、あるいは単に、景色を楽しむためにサイクリングロードを通って通勤しているのか、によって、他のどのような諸行動と連携しているのかが全く異なってしまう。1つの強化随伴性のなかで行動を断片的にとらえるのではなく、より巨視的で、中期的・長期的な観点からその行動を意義づけ、諸行動と関連づける視点が求められる。そうなってくると、個々の行動がロボットでもできるかどうかは大した問題ではない。 あと、落合先生が挙げておられた「皿洗いやネコのウンチ回収は、たまにやるぶんには楽しい」という事例であるが、これは、 ●その行動をしなければ、じきに嫌子が出現したり好子が消失したりするが、行動を続けていれば、それらの変化を阻止することができる。 という「阻止の随伴性」(嫌子出現阻止の随伴性、あるいは好子消失阻止の随伴性)に関連しているように思う。阻止の随伴性で遂行されている行動は、義務的な行動であり、何かに押しつけられていやいや行動しているように感じられる。この場合は、人間らしさは感じられない。 そのいっぽう、 ●その行動をしなくても平穏な状態は続くが、行動した時には好子が出現する という「好子出現の随伴性」で維持されている行動は「やりたいからする行動」というように感じられる。これらの違いは、スキナーが指摘した通りである。(こちら参照。但しスキナー自身は「阻止の随伴性」という言葉は使っていない)。 いずれにせよ、行動そのものが、人間らしい行動と、人間らしくない行動に二分されるわけではない。ある行動が人間らしい行動になるかどうかは、それがどういう随伴性によって強化されているのかによって決まってくる。 次回に続く。 |