【連載】ヒューマニエンス「“快楽” ドーパミンという天使と悪魔」その6 予測と期待の違い
昨日に続いて、9月9日に初回放送された表記の話題についての感想と考察。
昨日まで取り上げてきた「報酬予測誤差」はざっくり言えば「予想以上の結果には感動し、予想通りであれば感動せず、予想以下であればガッカリする」ということかと思うが、それがレスポンデント行動なのかオペラント行動なのか、確立操作で説明できないのかどうか、強化刺激の機能はすべてドーパミン放出の量に置き換えられるのか、といった問題についてはもう少し精査する必要があるように思う。
番組では、坂上先生の説明に対して
- 【いとうせいこうさん】僕らは人生に期待しないほうがいいってことですか?
- 【織田さん】禅の坊主とは欲を捨てろといっているが、欲のためにじっとしているのではないか。座禅の後にいただいた沢庵が美味しいとか。
- 【織田さん】ドーパミンは人を新鮮にさせるもの。
- 歳をとると、ドーパミンを得るために新しいことにチャレンジしようとする。
といった議論が行われた。
これらの中で留意すべき点としては、まず「予測」と「期待」の違いがあるように思う。経済番組などではしばしば「期待インフレ率」という言葉が使われているが、そもそもインフレを待ち望んでいる人はそんなに多くは居ないはずだ。これはおそらく英語のexpectに「期待する」と「予測する」という2つの意味があるための混同ではないかと覆われる。確率の「期待値」も同様。でもって「報酬予測誤差」のほうだが、これはどうやら「報酬期待誤差」のほうが妥当であるようにも思われる。
但し、期待と予測を別々の行動として捉えるのであれば、これらの行動はどこが違うのかを精査する必要がある。あくまで私見だが、これらに影響を及ぼす確立操作は明らかに異なる。お腹がへっている人と喉が渇いている人では、コンビニに入店した時に何が売られているのかについての期待内容が異なる。いっぽう、単に売れ筋調査のためにやってきた本社スタッフは、商品の在庫や売り上げの数値に関心を向けるものの、商品自体には何も期待しないだろう。
上掲の議論に戻るが、いとうせいこうさんの「人生に期待しないほうがいいってことですか?」は、あまり多大な期待をすべきではないという点ではその通りかと思う。総理大臣になるとか、オリンピックで金メダルをとるといったゴールはそう簡単には実現できない。とはいえ、人生に何も期待しない人は、そもそも予測誤差の基準となる予測すらしないので、何が起こっても無感動になってしまいそうな気がする。
ある種の悲観論は、ネガティブな方向に過剰な予測をするので、結果として現実との間に予測誤差を生み出す頻度が増えるかもしれない。例えば、ガン検診で陽性になった時に「いや自分はガンではない。そんなことはあり得ない」と予測する人よりも「自分はもう駄目だ。余命6ヶ月かもしれない」とネガティブに予測したほうが、精密検査で「ガンは初期段階であり治療可能」という結果を得た時の喜びが大きいようにも思われる。これを一般化すれば、世の中のあらゆる出来事に対して常に悲観的な見方をする人は、現実に起こった出来事との差分がポジティブになることで喜びに満ちた生活を送れるようにも思えるが、たぶんそんなことはあるまい。これはおそらく、過剰な悲観主義に陥ると、それ自体が不安やストレスをもたらすためかと思う。
禅のお坊さんが座禅の後の食事でドーパミンを得られるのかどうかは分からないが、充分に修行を積んだ人であればたぶんそんなことはあるまい。いっぽう、一般人が宿泊研修のような形で厳しい修行をしたり断食をしたりすれば、その後の食事はとても美味しいものになるだろう。但しその効果は、確立操作の枠組みでも充分に説明可能であり、ドーパミン放出の有無を持ち出す必要は無さそうだ。
あと、これもこのWeb日記で何度も指摘していることだが、日常のありふれた生活の中にも常に新たな発見はあり、必ずしも新しい趣味を始めなくても、いくらでもワクワク対象は転がっているはずだ。
次回に続く。
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