【連載】瞑想でたどる仏教(4)「戯論」のメカニズムと功罪
昨日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、
●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する
の備忘録と感想・考察。
第1回番組の終わりのところでは、「戯論が苦しみの原因」ということに関連して、
- 【為末さん】(スポーツの現場では)試合で負けた時に最初は「こんな弱気になってちゃいけない」と奮い立ち、否定的な感情を「こんなこと思っていたのではダメだ」と排除しようとしたが、経験的に言って、浮かんできた感情に対して「ダメだ」と否定すれば否定するほどそのことが注目がいって消えなくなってしまう。それよりは、「しようがない」と受け止めたほうが自然に抜けていく【長谷川による意訳のため不確か】。
- 私たちの様々な感情というのは、抑えようとしても抑えられないことが多い。起きてもよいからそれをちゃんとつかまえなさい。気づいて把握しなさい。【中立的な気持ちで】何度も把握しているとやがてそこから抜けられる、という点が重要。
- 私たちの脳の容量(処理能力)はそれほど多くは無い。さまざまなものに気づき続けていくと限界に達してしまい、戯論の働きが起きにくくなってくる。マインドフルネスの専門家の言い回しによれば「心の中に回路ができる。(いまの一瞬一瞬をきちんと受け止めるという)新しい反応のパターンが新しく作られる」。
- 気づいたら「そういうこともあるよね」という感じで手放していけばいい。感情が起きても支配されないこと。
- 【中條アナ】怒りや苦しみは手放してもよいが、喜びも手放さなければいけないのか?→極端にならないこと、両極端に偏らない「中道」が重要。「もっともっと楽しみ」、喜びすぎるという執着もいけない。
といったやりとりが行われた。
昨日も指摘したが、こうした発想は、関係フレーム理論やACTの入門書の記述にそっくりなところがある。但し、関係フレーム理論では、なぜ否定的な感情が派生しやすいのか、それらが派生するメカニズムはどうなっているのか、などについて、実証的な根拠に基づいてそれなりの体系化が図られている[※]。これに対して仏教が戯論をどのように理論化しているのか、果たして宗教的な概念を必要とするのか、については、1回目の放送内容では明らかにされていなかった。
[※]。
私が理解している限りでは、否定的な感情の派生は、関係フレーム理論では以下のように説明されている。
- 否定的な感情の派生は、後天的に獲得されたものであり、人類の祖先が、外敵から身を守ったり、飢饉や厳冬に備えたりする上で有用な適応戦略であった。但し、現代社会ではそれらが、他者からの評価、競争といった面で非適応的に作用することが多い。
- 否定的な感情の派生は、般化オペラントの一種である。人間以外の動物でも般化は生じるが、それらは概ね、形態的に類似した刺激に対して生じる。いっぽう人間の場合は、言語行動を介して、関係フレームとして整理されているような、機能的な般化が生じる。
ちなみに、今回の番組では「戯論」は「次から次へと広がる心の拡張機能」と説明されていたが、ネットで検索すると、
- 精選版 日本国語大辞典:無益な、また無意味な言論。愛着の心からする愛論と、道理にくらい偏見からする見論(けんろん)との二つをいう。
- 新纂浄土宗大辞典:正しくない、無益・無用の言論や分別。または、非論理的な話。
- 寺院センター:無益な言論、または、無意味な言論のことをさします。苦しみは自分の心が生み出すものと考えられ、心が怒りや悲しみといった戯論により拡張されていくことです。また、愛着心から行う言論である愛論、偏見より行う言論である見論とに分ける場合があります。仏教では形而上学的な議論は戯論に属します。
というように「無益・無用」が強調されているような印象を受けるが、言語行動の発達においては不可欠なプロセスであり、時には創造的思考の源になるという有用な面も無いわけではないようにも思う(←もっとも偏見や執着は新たな発想を妨げるという面もあるが)。
あと、中條アナが提起しておられた「怒りや苦しみは手放してもよいが、喜びも手放さなければいけないのか?」についても、具体的にどうすればよいのか、現実的な対応を示してほしかった。ACTでは、このあたりは「価値」という発想で対応しているように思うが、仏教では何をもって喜び、楽しみとするのか?という疑問も出てくる。といっても、そこらの町中の住職さんに尋ねても、おそらく、その宗派の模範的な解答しか示して貰えないような気もする。
不定期ながら次回に続く。
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