Copyright(C)長谷川芳典 |
|
昨日に続いてこの時期見頃となっている皇帝ダリア。皇帝ダリアは2メートル以上の高い枝に咲いているため、下から見上げるように撮影すると、空の明るさのせいでどうしても逆光になってしまう。下の写真は「さよなら逆光」で補正したところ。 |
【連載】瞑想でたどる仏教(3)名色の分離智、戯論 11月21日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する の備忘録と感想・考察。 第1回番組の後半では「“心のメカニズム”を発見する」という話題が取り上げられた。ここでいう「心」というのは、実際には脳の働きであり、fMRIなどの最先端機器による分析も進んでいると思われるが、ブッダは自らの体験を通じて、その大枠をすでにモデル化していたようである。 ここで登場したのが、「名色の分離智」という難しい概念であった。蓑輪先生によれば、モノを見るというプロセスは、
私たちが感じる苦しみというのは、対象そのものではなく、基本的には私たちの心が作り出している。ブッダは およそ苦しみが生じるのは すべて識別作用に縁(よ)って起こるのである。と説いた。 蓑輪先生はさらに、 私たちは感覚器官を通じて世界を受け止め、心のなかにつかまえられる対象を描く。それに対して瞬時に「これは何なにだ」という判断を起こしている。これが経典の中で言われる識別作用として位置づけることができる。その識別作用が生じると、私たちの心は次から次へと別の働きを起こしていく。例えばリンゴを見た時には、まずリンゴのイメージが心の中に描かれる。そうするとそのイメージに対して、あっこれはリンゴだという識別作用が働く。それが生じると次の瞬間に、あっ美味しそうだな、食べたいな、でも食べたら太っちゃうかな、といったように次から次へといろいろな働きが生じる。と説明された。 上記の2段階の働きは、仏典の中では「第一の矢」、「第二の矢」というように表現されているという。例えば道を歩いていた時に向こうから来た人と肩がぶつかったとする。その場合、
ここからは私の考えになるが、まず、モノを見る時にまず第一段階で「心の中【実際は脳】にイメージが描かれる」というプロセスについては、それを実在する生理的なプロセスとしてとらえるのか、それともある程度独立し分離可能な諸反応の生起順序としてとらえるのかによって見方が変わってくるように思える。私自身は後者の捉え方で十分であろうと思っていたが、最近はAIの進歩により、動物が何かを見ている時、あるいは人間が夢を見ている時に脳の中に描かれているイメージを、ある程度把握できるようになってきたとも聞いている【例えばヒューマニエンスで紹介されていた、AIによる夢の可視化】。 「分離智」、「識別作用」、「戯論」といった概念は、関係フレーム理論やACTの入門書の記述にそっくりなところがある。というか、関係フレーム理論が構築される過程で、仏教の着想が取り入れられていったと考えるべきかもしれない。識別作用というのは、まさしく言語行動の特性であり、「戯論」というのは関係フレームづけ、レスポンデント条件づけ、刺激機能の変容、などにそっくりのようにも思える。 不定期ながら次回に続く。 |