じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 岡山県総合グラウンドの紅葉見物に行ったところ、隣接していた「岡山ロイヤルホテル」が解体されていることに気づいた。ネットで検索したところ、2020年9月より無期限休業、その後再開されることなく、解体工事に至ったようである。
 このホテルは、文法経3学部教職員の新年度懇親会の会場として何度か訪れたことがあった。

 

2021年11月26日(金)



【連載】瞑想でたどる仏教(5)四諦八正道

 11月24日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、

●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する

の備忘録と感想・考察。本日からは、5月22日に再放送された第2回「ブッダの教えを継ぐ人々」の内容を取り上げる。

 その前に、ブッダという呼称だが、ネット上の各種情報によれば、

●本来は悟りを得た人のことをブッダ、釈迦は釈迦族出身を意味するが、「釈迦ただ一人を仏陀とする」という教えから釈迦の尊称に変わった。

という経緯があるようだ。この番組では「釈迦」ではなくもっぱら「ブッダ」が使われていたので、それに従うこととする。

 番組冒頭ではまず中條アナから、
前回は、ブッダが人生の苦しみから逃れるために悟りを求めていった。そこで心身の観察を見つけ、その苦しみの正体は自分自身の心にあることを発見した。その教えが2500年経った私たちに伝わっているのが仏教である。
というようにまとめられた【長谷川の聞き取りによる】。第2回は、ブッダの死後、弟子たちによってその教えがどのように伝えられていったのかが解説されるということであった。

 番組によれば、菩提樹のもとで悟りを得たブッダは西に200km離れたサールナートにたどり着き、そこで、一度ブッダのもとを離れていった5人の付け人たちに再会。付け人たちはブッダの弟子になったという。

 蓑輪先生によれば、自身が悟った内容はきわめて難解であったため、ブッダはそれを他の人たちに説くのをためらっていたが、、そこに梵天が登場し、世の中にはそれを理解する人たちもいるはずなので、きちんと説いてくださいと勧めたという。この部分に限って蓑輪先生は、「梵天がお釈迦様(=ブッダ)に悟りを伝えることを勧めた」というように述べておられたが、なぜここで「お釈迦様」という呼称が出てきたのかは謎であった。
 なお、第1回の内容や、第2回冒頭の中條アナの要約までのところでは、仏教はどこが宗教なのか? 心理療法や哲学の一種なのではないか?という疑問を持たざるを得ないところがあったが、ここにきて初めて「梵天」さまが登場された。ちなみに、蓑輪先生が説明されたことは、ウィキペディアでは、
バラモン教の神が仏教に取り入れられ、仏法の守護神とされ、梵天と称されるようになった。なお、釈迦牟尼が悟りを開いた後、その悟りを広めることをためらったが、その悟りを広めるよう勧めたのが梵天と帝釈天とされ、この伝説は梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される。
と説明されていた。

 ブッダが弟子たちに最初に説いた教えは、四諦八正道(四つの真理と八つの正しい道)であると言われているという。
 このうち、四諦は、
  • 苦諦(くたい):この世は苦しみに満ちている。 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実。
  • 集諦(じったい):苦の原因は欲望である。苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
  • 滅諦(めったい):苦しみのない理想的な状態。 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。
  • 道諦(どうたい):八正道の実践が苦を消滅させる。悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。

苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す。
さらに八正道とは、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことであるというが、このあたりは難解でありここで要約するのは困難。

 ちなみに、四諦のところに「諦める」という文字が使われているのは、「諦=真実を明らかにする」という意味であるが、それはある意味で欲望から離れていくことであり、「諦める」に繋がっているのではないかと説明された。
 なお、上記の「集諦」で「苦の原因は欲望である」としているが、為末さんから、「こんなふうになりたい、こんなふうなモノが欲しい、本当はこうあるべきだ」といった夢や期待を持つことも含まれるのかというような疑問が出されたが、蓑輪先生によれば、飽くなき欲望と呼ばれるものを追求することには否定的だが、人格の完成をめざすこと、悟りを求めたり何かの努力をすることを否定しているわけではなく、これは八正道の中の「正精進」を意味しているという。要するに八正道は、日常の中における心構えみたいなものとして受け止めてもよいのではないかと指摘された。

 ここからは私の考えになるが、素朴な印象として、「真実」とか「正しい」という言葉が次々と出てくることについては、どうしてもついていけないところがある。私には、機能的文脈主義でいわれるような「プラグマティズムに基づく真理基準」のほうがしっくりするし、「正義」というのもけっきょくは勝者を正当化するだけの論理であるように思わざるを得ないところがある。もっとも、この放送の第6回のところでも指摘されていたが、八正道も何も無い世界で、単なる心理療法のツールとして瞑想を活用することは、軍隊で、相手を殺してもストレスを感じない兵士を養成することにも繋がる恐れがあり、それでよいのかどうかという問題は残る。

 不定期ながら次回に続く。