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後楽園の紅葉見物の帰り、初めて、ハレカハーフ(65歳以上の岡山市民の路線バス・路面電車の運賃が半額になる制度)を利用した。【9月29日の日記に関連記事あり】 リンク先の案内の通り、乗車時に乗車口のカードリーダーにタッチ、また、バスの信号停車中に1000円分をチャージしたところまではうまくいったのだが、降車時に降車口のカードリーダーにタッチするところでミスをしてしまい、通常運賃が差し引かれてしまった。今回初めて利用したのは宇野バスであったが、リンク先に記されているように、宇野バスに限って、 宇野バスでは、降車時に乗務員のボタン操作が完了するまでハレカハーフをタッチしないでください。という注意書きがあったことを見落としていた。もっとも親切な運転手さんが、割引額の70円を現金で戻してくれたので、正しく利用した時と同様、半額の70円で乗車することができた。 |
【連載】瞑想でたどる仏教(7)縁起と随伴性 11月29日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する の備忘録と感想・考察。 まずは昨日も取り上げた戒律に関連するが。蓑輪先生によれば、ブッダの教えは概ね3つのジャンルに分かれる。すなわち、
続いて取り上げられたのが、「深い瞑想から得られること」という話題であった。放送第1回でも取り上げられたように、観察の中でまず得られるのが「名色の分離」であった。呼吸の観察を例にとると、鼻のあたりに注意を向けて、入ってくる息と出て行く息を観察していると、「気づかれている対象としての風のような動き」が存在し、それに対して自分の心が「入る」と気づいていると思える瞬間がやってくる。すなわち、この関係性は「つかまえられる風の動きがあった時に、つかまえる心が生じる」というように一方的であって、逆の関係「つかまえる心が先にあって、つかまえられる対象が存在している」わけではない。私たちが観察している対象はこのように一方的な関係性から成り立っており、このことを初期仏教では「縁起」と表現した。 リンゴの観察も同様であり、脳に描かれたリンゴのイメージ(色)とそれを観察する心の働き(名)の関係は、「色→名」という点で一方的であって、「色」が無ければ「名」は生じない。 この「縁起」という言葉は関係性、あるいは条件性と訳されることがあるが、初期仏教では一方的な関係性を示しており、これが「縁起」の最初の意味であったという。この「縁起」の考えはその後変遷があり、後世の大乗仏教では、一方的ではなく相互依存の関係性を意味するようになったという。蓑輪先生は 私たちが見ているさまざまな事物が存在している理由というのは、さまざまな条件が折り重なって目の前に出現しているというような関係性になっていく。ある時までは、心の中に生じてくるさまざまな働きは一方的な関係性でとらえられるが、その考え方を、私たちの心を説明する原理だけではなくて私たちの世界を説明するための原理として応用されていくようになると、その段階ではすべてのものが繋がっているという感覚になる。と説明された。こうして、自分と世界の関係は、自分を中心にした考えから離れていく(自己中心性を離れる)ことになり、それを可能にしているのが縁起の考え方であるという。 ここからは私の感想・考察になるが、この縁起の考え方は、行動分析学でいう「随伴性」に非常によく似たところがある。このことを指摘したのは、 佐藤方哉(1991).自覚せざる仏教徒としてのスキナー : 随伴性とは縁である というわずか1ページの追悼メッセージであるが、これを拝見した当時は、スキナーがなぜ仏教と同じ考え方をしていたのかは全く理解できなかった。 「随伴性=縁起」という考え方については、サトタツ(佐藤方哉先生と同姓だが親戚ではない)も、 オルタナティブのためのコンティンジェンシー再考:徹底的行動主義と文化心理学をつなぐもの という発表原稿の中で、論じておられる。 不定期ながら次回に続く。 |