Copyright(C)長谷川芳典 |
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12月7日の夕方は、西の空に多少の薄雲があったものの、月齢3.1の月と、金星が接近しているところを眺めることができた。最接近は9時48分の1°53′。金星は12月4日に最大光度マイナス4.7等の明るさになったが、撮影時は金星のあたりだけ薄雲がかかっていたため、木星より暗く見えていた。
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【連載】瞑想でたどる仏教(12)慈悲の心、止観ふたたび 昨日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する の備忘録と感想・考察。 第3回の終わりのところでは、ふたたび「慈悲」についての言及があった。 国語辞典などによれば「慈悲」には「いつくしみあわれむ心」とか「困っている人に やさしくする気持ち。なさけ。」といった「望ましい」意味がある。私の卒業した小学校の校歌も「慈しむ人とならばや」という歌詞で終わっており、とにかく「慈しむ人になるのは良いことだ」と教えられてきた。もっとも、社会的に望ましいことであるから慈悲の心を持ちましょう、というのは、その有用性に基づいたプラグマチズム的な発想である。そういうことではなくて、大乗仏教では、慈悲は人間の本質であり必然であると考えているようである。要するに、
「慈悲」は、12月2日に言及した『清浄道論』の中にも「四梵住(しぼんじゅう)(四無量心、しむりょうしん)として含まれている。四梵住は誰でも持っているはずだが長続きしない。東日本大震災の時も、世界中の人たちが支援の手を差しのべたのは慈悲の現れだが、一時的なもので終わってしまった。それを長続きさせ、自らのものするために修習の対象としたという。 ここからは私の考えになるが、すべてが繋がっているということから慈悲が必然的に導き出されるのかどうかは、もう少し考えてみたいところがある。例えば、功利主義と慈悲との関係、高齢者ケアと慈悲、競争原理の功罪といった問題などなど。 あと、「四梵住(しぼんじゅう)のところで気づいたが、四十業処はそもそも、止(サマタ)における導入的な瞑想対象であった。12月2日の日記で、 ●せっかくの【ブッダのオリジナルの方法である】「観」がどこかに行ってしまって、「止」の瞑想が復活してしまったような印象を受けてしまった。 と述べたところであるが、止と観の違いの項目を見ても「観」の行方はイマイチ分からなくなってしまった。 不定期ながら次回に続く。 |