Copyright(C)長谷川芳典 |
|
岡大七不思議の1つ、農学部構内の「落ちないイチョウ」が今年も目立つようになってきた。すっかり葉を落とした木々に囲まれて、一本だけたくさんの葉をつけている。
|
【連載】瞑想でたどる仏教(9)清浄道論、四十業処 12月01日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する の備忘録と感想・考察。 本日から第3回に入る。なお、こちらの情報によれば、この6回シリーズは12月29日と30日に一挙再放送されるという。 【12月29日(水)深夜 ※実日30日(木)】私自身は第5回の録画に失敗していたので、この再放送はまことにありがたい。 さて、第3回の冒頭では、
ブッダの死後、弟子たちによって、瞑想の観察対象はさまざまに拡大された。ブッダの瞑想は「四念処」と呼ばれるように、観察対象を身体の動きや心の働きなど4つに分けていたが、5世紀頃、ブッダゴーサが瞑想についてまとめた書『清浄道論』では、瞑想の観察対象は40種類(四十業処)ほど拡張された。リンク先によれば、その内容は、
このうち十遍(遍処)というのは、私たちの身の回りに満ちている自然現象であり、例えば「地遍処」は、東南アジアの仏教では、土で作られた円盤を目の前に置いて「地、地、地、...」と唱えていると、円盤を取り去っても地に満ちていると感じるようになる。1つのものに集中することで、他の働きが起きないように訓練するやり方であるという。 興味深い、というか少々気味が悪いのが次の「十不浄」であり、これは死体が腐敗する過程を観察するというもので、平安時代に日本に伝えられた時には1つ少ない九相図として描かれているという。十不浄は、身体は執着の対象ではないということを確認するための観察である。タイでは若い僧に対してこの観察が推奨されているが、これは異性に対する欲望を抑えてくれる効果があるという。古代ではインドには死体捨て場のような場所があり、そこではいろいろな状態の死体に接することができた。但し、死体の腐敗臭を避けるために風上で観察せよ、というようなことも注意されていた。蓑輪先生によれば、ここで興味深いのは、瞑想の対象が自分の身体ばかりでなく、自分の外も観察対象にしている点である。観察の対象が広げられたのは、さまざまな手段・工夫を活用したほうが、最終的な境地に達するために有効であると考えられたためであるらしい。 上記の3.の「十随念」というのは、私たちが心の中に抱く概念的なものを集中の対象として使っていくものであり、仏随念というのは仏様の名前(仏の十号)に集中するものであった。ここでのポイントは、言葉も集中していく対象として使えるという考え方である。この考え方が東アジアに伝わり、「称名念仏」に繋がったという。 仏教の瞑想は時代や文化に合わせてさまざまに形を変えていった。ラダックの密教は、仏教に土着の宗教が影響して生まれたものであり、密教の僧は真言を繰り返し、儀式では集団で仏の名前を口にする。これらは、ブッダが一人で行った瞑想とは異なるように思われるが、ここにも観察の対象を定めて注意を振り向けるというブッダの考えが反映しているとのことだった。 ここからは私の感想・考察になるが、ブッダの「四念処」とマインドフルネスとの類似性はある程度理解できたような気分になっていたが、今回の四十業処は、観念的かつ難解で、老化が進む私の能力ではなかなか理解できそうもない。 あと、11月21日の日記で、 ブッダ自身はまた念処を「止(し)」と「観(かん)」という2つの方法に分けており、前者の「止(=サマタ)」はブッダが悟りをひらく前に2人の仙人から教わった方法であり、一点に集中し、心の働きが止まっていくという意味で名付けられた。いっぽうの「観(=ヴィパサナー)」は観察対象を広げその周囲にも注意を向ける。ブッダ以前の瞑想は「止」であり、確かに瞑想の最中は心の働きが起きないので悩みも苦しみも生じない。しかし「止」から日常に戻ると悩みや苦しみが復活してしまう。ブッダは「止」は真実の悟りに至る道ではないのではないかと考え、ブッダのオリジナルの方法である「観」を重視した。この「止」と「観」の区別は、ブッダのお弟子さんたちによって定式化されたようである。と述べたところであるが、その後のお話を伺っていると、なんだか、せっかくの「観」がどこかに行ってしまって、「止」の瞑想が復活してしまったような印象を受けてしまった。 不定期ながら次回に続く。 |