Copyright(C)長谷川芳典 |
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12月14日の岡山は、最低気温がマイナス0.1℃となり、わずかではあるがこの冬最初の氷点下を記録した。
写真は枯れ草の上の霜と、屋外のテーブルの上の霜をかき集めたシャーベット。 |
【連載】瞑想でたどる仏教(15)菩提達磨 12月10日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する の備忘録と感想・考察。 第4回の放送の後半では、安世高、智に続いて、禅宗の祖、菩提達磨が紹介された。菩提達磨は洛陽郊外の嵩山少林寺において壁に向かって9年間坐禅を続けたため、手と足が無くなったという逸話が生まれ、お馴染みのダルマさんのモデルになっている。もっとも、ウィキペディアによれば、 これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。という説もあり、「壁に向かって」ではなく「壁のように動ぜず」が真意であった可能性もある。 禅宗の重要な特徴は「見性成仏」という考え方であり、時代により変遷はあるが、最初に私たち自身の本性ををはっきりと見てとることが大事であり、そのあとで修行をしていくという立場をとっている。すなわち、私たちはもともと仏であり、自己自身は仏(悟った人)にほかならず、否定すべき対象ではないとつかまえた上で修行を行う。もともとインドの考え方では、修行を重ねる中で悟りを目ざすが、悟りを得られるかどうかは保証されていない。これに対して見性成仏では、仏たる性質は私たちに備わっており、必ず悟りを得られるというようにみずからを肯定する。瞑想は、悟りを得られることを自覚した上でその道筋を確認するように実践していくものと捉えられた。 こうした考え方は、老荘思想における「道」の発想、すなわち私たちもある意味で「道」が変化した存在であるという発想とも共通しており、「本来的に私たちは仏なんだ」と気づくことは現実を肯定的に考える中国の人たちにとってすごくマッチするものであると説明された。 では、見性成仏を体得する方法として、臨済宗では「公案」(論理的には意味をなさないような文章を修行者に出して瞑想に用いる)が取り入れられているという。唐の時代に作られた公案は「自分自身が仏にほかならない」と気づかせるために作られた工夫だと言われており、一つのものを考え続けていくことで心の働きを沈めていき、ほかのものが起きないという効果をもたらす。 仏教の戒律はもともとインドからもたらされたものであったが、禅宗では新たな戒律として「清規(しんぎ)」が付け加えられた。これもまた儀礼を大事にする中国の文化にマッチしたものであった。 このようにして東アジア世界では、中国で広がった仏教が大きく影響しており、多くの人たちが関心を持ち実践しているのは、念仏と禅だと言われている。このように社会に定着したのは菩提達磨の貢献が大きいと説明された。 以上、中国に仏教を広めた3人のキーパーソンは、安世高(仏教を紹介した人)、智(仏教をまとめた人)、菩提達磨(仏教を浸透させた人)というように特徴づけられた。このように仏教の形は変わり、柔軟性を身につけていったが、「苦しみと向き合うのが仏教、瞑想でそれを解決する」という本質部分は変わらずに残った。 ということで、次はいよいよ、日本に伝えられた仏教がさらにどう進化していったのかという話になるのだが、残念ながらこの第5回の放送は、8月最終週に放送されると思い込んでいたため、録画に失敗してしまった(実際の放送日は8月15日だった)。幸い、12月31日の午前2時からこの第5回が再放送される予定となっているので、この日記の連載のほうも、第5回を録画したあとで再開することにしたい。 第5回録画後に続く。 |