Copyright(C)長谷川芳典 |
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北九州でよく見かけるヒメツルソバの群生。岡山と違って滅多に氷点下の気温に下がらないため、冬に枯れることはない。 |
【連載】瞑想でたどる仏教(18)曹洞宗、臨済宗、日蓮宗 昨日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する 第5回「日本仏教の誕生」 のメモと考察。 タイトルの通り、上記の放送では、日本仏教の一般的な歴史ではなく、あくまで「瞑想からたどる」という観点からの変遷が取り上げられていた。 番組では続いて、鎌倉仏教の代表的な宗派において瞑想がどのように取り入れられているのかが説明された。 最初に紹介されたのは禅宗。そもそも禅というのは、もともと中国で発生した一派で、鎌倉時代に日本に伝えられた。曹洞宗も臨済宗も基本的に座る禅(=坐禅)を重視している。 このうち、曹洞宗の開祖・道元は、 心意識の運転を停め、と説いているという(『普勧坐禅儀』より)。蓑輪先生によれば、「心意識の運転」、「念想観」、「作仏」はいずれも戯論であり、ただひたすらに坐禅をすること(只管打坐)が推奨されている。曹洞宗では、坐禅のさいに雑念が生じてもそれを眺めていればいいと説く人もおられるという。 臨済宗のほうは、宋の時代に大きな展開があり、「公案」や「看話禅」が取り入れられた。これは「片手の音を聴け」というような答えの無い禅問答であり、答えそのものが大事なのではなく、答えを導きだそうとしていることを気づいていくことが大切であるとされている。修行僧は1日に幾度か自分の考えた答えを老師に伝えなければならない(参禅)。老師が静かに頷けば次の公案が授けられ、いっぽう考えが浅いと判断されれば同じ公案に取り組む。このようにして追い詰められ、自分で立ち上がるように仕向けられる。この修行には終わりが無い。 続いて紹介されたのが、蓑輪先生のご実家である日蓮宗のお寺(妙法生寺)であった。正面には日蓮の像が安置されており一目で日蓮宗のお寺であると分かる。日蓮は、ブッダの晩年の教え「法華経(妙法蓮華経)」こそが真実であると人々に説いた。その題目「妙法蓮華経」に「帰依する」という意味の「南無」をつけた「南無妙法蓮華経」の七文字を唱えるだけで救われると人々に広めた。放送では、蓑輪先生と実兄の住職により、じっさいに唱題が唱えられる様子が紹介された。「南無妙法蓮華経」をゆっくり唱えるというのが瞑想の意味を持っており、それにより「心の働きを鎮めていく観察とあらゆるものを観ていく観察の両方につながっていく」と説明された。 日蓮は 苦しみを苦しみと悟り、と説いたが(『四条金吾殿御返事』)、ここでいう「苦しみを苦しみと悟り」というのは、これを唱えると苦しいことが楽になるという意味ではなく、「苦しい時には苦しいということに気づけばよい」、すなわち、「今自分自身がどういう状態にあるのかというのをしっかり確認すること、それと一緒にお題目唱えなさい」というのが日蓮の教えであると説明された。これは、「気づき続けると戯論が起こらず消えていく」というブッダの考え方と共通している。 次回に続く。 |