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北九州のウォーキングコースで見かける「長崎街道」のプレート。何年か前に、小倉から八幡東区のあたりを歩いたことがある。当時は長崎までの踏破を計画したこともあったが、加齢とともにその意欲が後退した。 |
【連載】瞑想でたどる仏教(19)浄土宗、浄土真宗 昨日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する 第5回「日本仏教の誕生」 のメモと考察。 番組では、鎌倉仏教各宗派における瞑想として、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗に続いて、浄土宗、浄土真宗が取り上げられた。 もともと瞑想は自力を前提としており、修行を通じて行われるものであり、他力を説く浄土系ではかなり異なった捉え方がされているようであった。 浄土宗の開祖、法然は、念仏を唱えることについて、 ●観念の念仏にもあらず 止観の念仏にもあらず と説いているという。もっとも蓑輪先生は、「南無阿弥陀仏」を一日中唱えるということは、臨済宗の公案のように心の中に抱き続けていくのと同じ効果を持つ可能性があり、言葉の上では観念の念仏ではないと言っているものの、行っている行為を考えてみると、心の働きを静めていく、何か1つのものに集中させていく働きはあったと考えてもよいのではないかと解釈しておられた。 そもそも自力の瞑想は、学問がある程度できないとわからないし、よほどの覚悟で臨まなければ修行も無理というような意識があった。末法の世で万人に開くという視点から考えていくと、とにかく、南無阿弥陀仏と唱えさえすれば往生することができる、悟りの世界にいけるのだよ、と言ってのけたのは、当時苦しんでいた人々を救済するという点で大きな意味を持っていた、と説明された。 浄土真宗では、末法の意識がさらに強く働いており、阿弥陀仏が衆生を救うために起こした誓願(本願)を信じることの大切さを説いた。蓑輪先生によれば、浄土宗と異なり、本願を重視する浄土真宗では、念仏を唱えることは必要ないというところまで進んだ。念仏自体は捨てていないが、感謝のために唱えるとされたという。 親鸞は「はからう気持ちがない」ことが悟りの世界に行くことにつながると説いた。 「他力には義なきをもって義とす」と、・・・(中略)と述べたが、この「はからう心は戯論の働きそのもの」であり、信じることによって戯論を起こさせない仏教を興したのが親鸞ということになる。そのように考えれば、何かに集中して戯論を抑えるという点では仏教の基本的な考え方を踏襲しているということができる。 ここからは私の考えになるが、私のような理屈をこねることの好きな者から言わせていただくならば、臨済宗の公案も、また、何かをひたすら信じるということも「戯論」であるような気がしてならない。要するに、言語行動を通じて派生するあらゆる関係反応はすべて戯論であると言ってよいのではないかということだ。 あと、「戯論」がすべて悪いかどうかももう少し考えてみる必要があるように思う。なぜなら「戯論」は、悩みや苦しみを引き起こすと同時に、楽しみ、快適さ、ワクワク感なども生み出す可能性があるからだ。「戯論」に取り憑かれて現実世界に適応できなくなってしまった時にはそれを切り離す工夫が求められるが、普段の日常生活の中では、ある程度「戯論」があったほうが、豊富な体験を重ねることができるようにも思える。 次回に続く。 |