じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 妻の実家のテレビでBS-4Kの放送を初めて視聴した。このテレビは昨年買い換えたもので、BS-4K放送を視聴できる機能がついていたが、高齢者向けのシンプルなリモコンでチャンネルを選択していたため、4Kに切り替えることができなかった。テレビ購入時に同梱されていた正規のリモコンを取り出してみたところちゃんと「4K」というボタンがあり、これを選択すれば4K各局の番組表が表示されることが分かった。
 一番最初に視聴したのは コズミック フロント「スターゲイザー 〜受け継がれる星の記憶〜」の再放送であったが、私が老眼のせいか、通常の地デジやBS放送と比較して、期待していたほど高精細には見えていなかった。

 ちなみに、我が家のテレビは家電エコポイントを使って買い換えたものであり、4K機能はついていない。もっとも、現時点での4K放送の番組表を見る限り、特に急いで4K対応に切り替えたいと思うような放送は見当たらない。

2022年1月06日(木)



【連載】瞑想でたどる仏教(20)瞑想仏教の本来の意味

 昨日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、

●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する 第5回「日本仏教の誕生」

のメモと考察。

 放送内容の順番が前後するが、蓑輪先生がなぜ仏教瞑想に関心を持たれたのかについて語っておられるところがあった。蓑輪先生は日蓮宗のお寺に生まれたため、子どもの頃からお題目を唱えていたが、なぜ、何のためにということに疑問を持った時もあったという。その中で仏教が伝えてきた修行に興味をいだき、バングラデシュからやってきた留学生と一緒に東南アジアの上座系の仏教の中に伝わっている身心の観察法を研究し、日本の仏教者たちも形は違うけれども同じことを伝えているのではないかと気がつくようになり、ストレス、悩み、苦しみの多い現代社会に何か役立てるんじゃないかと思うようになったとのことであった。どの宗派の仏教者でも何らかの瞑想は体験しているが、その意味をきちんと理解している人はそんなに多くはない、但し、現在、少しずつ変わってきていると語っておられた。
 大学でのアカデミックな研究の方法と、瞑想の体験重視の方法という一見相容れない2つの世界に関しては、学問的な研鑽と修行の研鑽はどちらも大事で車の両輪のように捉えられていると語っておられた。

 番組の終わりのあたりでは、日本に伝えられた当初の仏教は「共同体としての仏教」であったが、それが、一人一人に寄り添う本来の仏教に変わってきたのではないかと指摘された。仏教の原点は、生きていると経験する悩みや苦しみからいかにして逃れることができるのかというところにあり、釈迦は悩み苦しみの原因が戯論であることを見据えた。それが「行」として各宗派で伝えられてきたが、蓑輪先生は、それが持っている意味をあまり確認していないように思われると指摘された。

 ここからは私の考えになるが、悩み苦しみの原因が戯論であるという考え方自体は、関係フレーム理論においても、より科学的な方法で実証されており、少なくともその段階までのところでは、宗教的な概念は全く不要であるように思われる。
 仏教が宗教として特徴づけられるのはおそらく、
  1. 如来・菩薩・縁覚・阿羅漢・明王などを信仰の対象としたり、極楽浄土輪廻などを信じること。【もっとも、極楽の概念は、必ずしも天空の仮想世界ではなく、また輪廻については仏教の中でも否定的な見解があるという。】
  2. 多くの宗教と同様、何かを祈願すること。
といった点にあるように思われる。その背景はいろいろ考えられるが、おそらく、人々の多くは、単に戯論を静めるというだけでは納得せず、よりポジティブで永遠なもの、超自然的な力のようなものとセットにすることで初めてその宗教を信じることに価値づけされるようになるためと考えられる。

 じっさい、死ぬということは肉体が機能しなくなること、また、それに依存してきた言語行動、その中で「いま、ここ、わたし」というユニークな視点を持ったり、概念的に作り上げられてきた「じぶん」を意識するなかで生じる特殊な感覚が生じなくなることを意味するだけであって、それ以上でもそれ以下でもないと思うのだが、それだけでは空しいと感じる人が極楽浄土というような壮大な仮想世界を信じること自体は、バーチャルリアリティの世界に没頭することと同様であって、それが本人にとっての価値となるならば、敢えて否定すべきものでは無いようにも思える。

 とはいえ、基本はやはり現実世界にダイレクトに接することにあるべきだと思う。1日中、坐禅をしたり念仏を唱えたりするということは、その時間は生産活動を行っておらず、客観的に見て他者の役に立つような労働は何もしていないことは確かであろう。そういう意味では、同じ宗教活動をする場合でも、現実世界に貢献するような活動を中心に行うことのほうが社会全体にとって意義深いようにも思えるのだが、だからといって一部の新興宗教系の諸団体の活動を肯定するつもりは全くない。

次回に続く。