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【連載】チコちゃんに叱られる!「お年玉つき年賀葉書」「お屠蘇」「最強のシャボン玉」 1月2日に放送された表記の番組についての感想と考察。この回は、「東京オリンピックが終わったと思ったらもう年明け!そりゃ子どもも大きくなるわなでもチコは今年も5さい鎌倉殿もみ大河スペシャル〜!!」と題して、88分拡大版で放送され、
まず1.であるが、正解は「戦後の日本を明るくするため」と説明された。年賀状はもともと平安時代の貴族に始まり、江戸時代には庶民の間にも広まった。明治時代には、年賀葉書によるやりとりがブームとなったが、戦時中には年賀郵便物の取り扱いが停止された。戦後の1948年になって年賀郵便は復活したものの、取り扱い枚数は戦前のピーク時の12分の1以下にすぎなかった。 そんななか、画家の林正治という人が年賀葉書にクジをつけることを思いつき、知人を介して当時の郵政省の事務次官に直接提案し、これが採用され、1949年12月1日に初めてお年玉つき年賀葉書が1枚3円で発売され完売となった。番組画面によれば、当時の賞品は、
発売の初年度は売れ残りが懸念されたが、当時の新聞には翌年春の参議院選挙を控え大量購入などもあって 物凄い売れ行きになっているという記事が掲載されていたという。ちなみに、その記事では、山口シヅエ代議士が10万枚(30万円)、小沢郵政相と、同省の吉田政務次官が各5千枚といった購入記録が紹介されていた。当時、参議院選挙は全国区と地方区に分かれており、全国区の候補は多額の資金をつぎ込んで全国規模の選挙運動をする必要があった(もしくは業界の族議員)。年賀葉書は当選番号の発表までは大事に保管されるため、政治家ばかりでなく一般企業の宣伝手段としても効果が大きかったものと推測される。 ちなみに、上掲の1949年当時からずっとそうだが、お年玉つき年賀葉書の当選本数というのは、特等や1等の当選本数が極めて少なく、宝くじ以上に当たりにくい確率に設定されている。もっともそれだけでは、いくら魅力的な景品であっても、当たるはずがないと思われてしまう。そこで一番低い等級のほうは、100枚につき3本程度が当たるように配慮されており、毎年30〜50枚前後の賀状をやりとりする人は、かなりの高確率で、少なくとも1枚は当選できるような仕組みになっている。もっとも、だからといって、何万枚も購入し、未使用の状態で当選発表まで保管し、景品交換後にすべてを「書き損じた葉書」として切手などに交換したとしても得をすることはまずない。交換手数料を取られないならば別だが。 なお、お年玉つき年賀葉書の提案者の林正治さんは、いろいろなアイデアマンであったようで、シベリアに抑留された人たちへ送る「声の郵便」を発案したほか、54個ほどの特許を持っているが、唯一実用化されたのは牛乳の栓抜きだけであったという。 次の2.は、番組では「若者のエキスを吸い取って不老不死を手に入れるため」が正解とされた。お屠蘇を正月に飲むのはもともとは中国の習慣であり、平安時代に貴族や武士などに広まった。本来は漢方薬をお酒に漬け込んで作られる薬酒であるが、日本にはお正月に御神酒を飲む習慣があったためそれと混同されてお屠蘇と呼ばれるようになった可能性もあるという。若者から順番に飲むのは、若い力を年長者に伝えるという意味が込められているためであるという。 3.の「最強のシャボン玉決定戦」では、東京理科大の川村教授が考案した、グリセリンとガムシロップを加えたシャボン玉がもっとも割れにくいという結果になったが、新たな挑戦者が参戦することになり、次回の放送に持ち越しとなった【←結末を出し惜しみして先送りするところは、なんとなく民放のバラエティー番組に似てきた印象あり】。 次回に続く。 |