【小さな話題】「決戦!大坂の陣」と歴史研究での謎解きの意味
12月30日(木)にNHK-BSPで放送された表記の番組を録画・再生で視た。「大坂の陣」についての新たな興味深い発見が紹介された。さらに、歴史研究における謎解きの方法、何のためにどこまで謎を解くのかといったことを考えさせられる内容であった。
まず、順序が逆になるが、番組の終わりのところで、光成準治さんが語っておられたように、歴史の謎解きでは、
国内の文献資料だけに頼ることの危険性に気づいた。海外の資料・屏風・発掘調査・シミュレーション、こういったものを総合的に考えていかないといけない。
という視点が大切であると改めて感じた。
- そもそも国内の文献資料というのは、何らかの目的のもとに書き記され、子孫に伝えられたものが多い。当然、一族の手柄になる出来事は強調されるいっぽう、不都合な出来事は隠蔽される。大坂の陣の場合は、徳川方の評判を落とすような文書は残りにくくなる。さらには、伝承の中で、個人が活躍する場面はより誇張され物語化していく。じっさい、赤穂事件とか新選組については、相当程度に脚色されてしまっていて、実際の出来事を正しく把握することはきわめて困難と言える。
- 海外の資料については、国内の文献資料に比べるとある程度の客観性がある。その時代の権力者をどのように悪く評価しても弾圧されることはないし、逆に、わざわざ褒め称える必要もない。もっとも、外国人自らがいくさの現場に立ち会ったわけではないし、当事者から直接聞き取った話でもないので、伝達者による噂話になりがちな恐れがある。
- 発掘調査は、それまでの通説を覆すような大発見をもたらすことがある。今回の放送の中では、
- (発掘ではないが)淀川河川公園長柄地区の河川敷には大きな石が8個ほど転がっている。これらは、明治時代以降に付近を川ざらいした時に引き上げられたもので「長柄の巨石」と呼ばれており、通説では、江戸時代、幕府によって再建された大坂城の石垣に使うための石であったとされている。しかし、石の形はバラバラで、大坂城の石のような規格化がされていない。なので、これらの石は、大坂の陣の時、徳川軍が水の流れを変えてしまおうと投げ込んだ石である可能性がある【千田嘉博さんの説】。
- 大阪市中央区の発掘調査では、大坂冬の陣の時の陣小屋の跡が見つかっている。それぞれの小屋は3m四方ほどでその中に10人ほどの牢人が暮らしていた。集結した数は10万から15万と言われており、豊臣側に恩賞を要求したり、治安を乱したりするなど、豊臣側にとって、徳川側との和睦をすすめる上での難題になった。
といった新たな可能性が指摘された。
- シミュレーションとしては、今回は、冬の陣に際して豊臣軍が決行した「洪水作戦」の実像が、高精度のコンピューター・シミュレーションにより明らかにされた。このシミュレーションはもともと、防災対策として開発されたものであるというが、「文字史料や古地図の分析、発掘成果、城郭研究、詳細な豊臣時代の地形復元、古気候学にもとづく降水量復元、現地踏査による遺構確認をはじめとして、番組が各分野の研究者・技術者とともに明らかにした成果」であるという。
ところで、こうした歴史研究の謎解きは、「何のために?」、「どこまで?」という疑問がついて回る。歴史の流れというのは、それぞれの時代の生産活動とその分配体制などによってある程度の必然性がある。個々の大きな事件は、当事者の個人的な特性や偶発的な条件によって大きく左右されるが、歴史の大きな流れを変えるほどのものではない。織田信長が殺されなかったとしても、その後数百年程度は封建体制が続くことは必然であったろうし、赤穂事件や新選組は、時代の大きな流れから見れば些細な出来事であったかもしれない。今回取り上げられた大坂の陣も、それがどう展開しても、数十年以上のスパンで言えば、豊臣側の崩壊と徳川側の権力掌握の流れを変えるようなものではなかったと言えよう。
そういう見方をしていくと、歴史の謎解きのうちのある部分は物語的な興味、ある部分は歴史的必然と個人の役割の問題という形で展開されることになるだろうが、そもそも、この先、世界がどうなっていくのかは全く分からない。けっきょく、何十年、何百年、何千年も経ったあとで、実際に起こったことに後付けするかたちで解釈がなされるだけなのかもしれない。
|