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岡大・大学会館北の交流広場は2014年3月に完成しているが、リンク先にあるように、 ピンク色のレンガを敷き詰めた開放的な空間。世界的な建築家ユニット「SANAA(サナア)」が設計したパーゴラ(日陰をつくり、くつろぎの場を創造する屋根。もとはぶどう棚を指す言葉)が印象的で、周囲に植えられた樹木が生長すると、木陰とパーゴラの陰が重なり合って森のような空間を創り出します。という制作意図が込められているという。植えられている樹木はすべて落葉樹のため、冬場はパーゴラの陰だけになるが、アングルによっては見応えのある光景になる。 |
【連載】瞑想でたどる仏教(29)マインドフルネス瞑想(3)/まとめ 1月22日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する のメモと考察。今回が最終回。 放送では、マインドフルネス瞑想のほか、瞑想中の脳の活動を特殊なMRIで解析するという東大の研究が紹介されていた。瞑想中に顕著な変化を見せたのはDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)と呼ばれる、休憩、瞑想、考え事などに関わる領域の繋がりが強くなっていることが示された。これを刺激すれば鬱病などの治療に役立つ可能性があるという。いっぽう、外界のことに注意を向けて作業をする際に活性化されるTPN(タスク・ポジティブ・ネットワーク)との繋がりは遮断され、妄想や幻覚が起きやすい状態になっており、これが瞑想の負の側面ではないかと指摘された。 続いて、中條アナから、仏教における瞑想とマインドフルネス瞑想は同じものであるかという質問が出された。蓑輪先生の説明は、 マインドフルネス瞑想は「価値判断をいれずにありのまま見ること」と定義されており、観察の技法という点から見れば、どちらも同じものと言っていい。しかし、仏教が見ている世界では、瞑想は一つの手段であり、ものの見方とか社会での生き方になっている。仏教の場合には、(瞑想と)「慈悲」がいつもセットになっている。自分たちの生活を戒律により律していくというというように、いろいろなものと一緒になって心の観察が行われる。悩み苦しみを越えていくというのは確かに大事な点であるが、(瞑想が)テクニックとしてだけ使われるとすると問題点もある。というように説明された【長谷川の聞き取りによる】。蓑輪先生はまた、マインドフルネス瞑想がアメリカの軍隊で使われているという例を挙げておられた。戦闘の現場に出かける前にマインドフルネス瞑想を行い、凄惨な体験がもたらすPTSDを起こしにくくするという訓練であるというが、これはよく考えてみれば人間を殺人マシンに作り上げようとしているものとも言えると指摘された。蓑輪先生はまた、ある先生が語られた例え話を引用し「瞑想は湖でボートを漕ぐ時の漕ぎ方のようなものであり、どこに行くかはその人の意図によって変わってくる。意図をきちんと大事にしていく必要がある。仏教では「他者性」がきちんと担保されていて、どうあるべきかがきちんと出されている。」と説明された。 放送の終わりのところで蓑輪先生は、 (瞑想は)技術、身体技法みたいなところがある。(仏教は)使い方の指針もしっかりと示している。例えば、先ほど挙げた軍隊でのマインドフルネス瞑想の話があったが、仏教ではまず第一に人をあやめてはいけないという戒律がある。個人を越えて、人間というのは一人では存在しえない、他者との関わりのなかで社会を構成し、その社会の中でどうあるべきかをちゃんと見据えている。さらに、 私たちは、私たちの感覚器官を通じて世界を認識して、そこから生じる心の働きに悩み苦しんでしまうが、それが完全に無くなるというようには仏典の中では書かれていない。そのような様々な働きが生じてもそれをこらえることができる、何とかしてきちんと生きていくことができる、その心に支配されないでそれを越えていくことができると述べられている。これがまさに「心の師となるも心を師とすることなかれ」である。まずは自分を整えて、社会の中でどう活躍できるのか、そこでできることは自分の生きている意味みたいなものをあとで自覚することに繋がる。仏教はそうしたことを伝えようとしていたのではないか。と結論された。 ここからは私の感想・考察になるが、マインドフルネス瞑想については、現役時代、心理学関連の学会でも何度か小講演を聴講したりワークショップに参加させていただいたことがあった。セラピーの一手段としてより効果的で副反応の少ない技法を開発していくことにはそれなりの意義があるとは思う。但しそれだけでは、納得のいく生き方とか生きている意味を見出すことはできない。仏教で重視されている「慈悲」とセットにすることは大いに意義深いとは思うが、社会との関わりをできる限り少な目にすることを目ざしている隠居人の私にとっては、なかなか馴染めないところがある。 私自身が瞑想にあまり馴染めないのは、現時点では、生活に支障になるほどの悩みや苦しみを感じていないということにあるためかと思うが、5年、10年、15年と経てば、身体的にも衰え、病に伏すという可能性もあり、そのさいに、安らかな最期を迎えられるような瞑想法というのはぜひとも獲得しておきたいという利己的な願望は持っている。瞑想というと座禅のような姿勢をとることが一般的であるが、これでは寝たきり生活では役に立たない。寝たままでできる瞑想法というのがあるかと思って検索してみたが、カルト宗教っぽいものや金儲け目当てのものなど胡散臭いものもあり、そう簡単には見極めできそうにない。自分なりの方法を開発し、臨終間際に実践できればと思っている。 |