じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



02月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る


 TV朝日系で1月30日放送に放送されたナニコレ珍百景TVerで視聴した【TVerの利用は今回は初めて】。特に興味深かったのは、瀬戸内海の牛ヶ首島(香川県直島町)にあるという巨大な涅槃像の頭であった。高さ8.5m、長さ12mというだけあって、右の画像のようにGoogleやYahoo!の航空写真にも写っていることが分かった。
 放送によれば、この涅槃像の頭は島の持ち主である山陽新報(現在の山陽新聞)の社長が亡くなった娘の供養のために仏像や大きな寺を建てる構想を持っていたが、工事の途中で社長が亡くなり計画は中止に。その後地元の石工さんが計画を継承したものの、頭部を彫ったところでその石工さんも亡くなったため完成せず頭部だけ残ったという。
 ネットで検索したところ、こちらにより詳しい解説があり、涅槃像は日蓮聖人の涅槃像であり、顔部分は1982年に完成。このほか、頬の部分にはミニチュア涅槃像【制作のためのモデル?】があり、放送された画像にもちゃんと写っていたが何も言及されなかった。さらに「日蓮上人涅槃像」で検索したところ、以下のような関連資料が見つかった。
  1. 牛ヶ首島の涅槃像
  2. 【45山さんの終末観光】牛ヶ首島 日蓮上人 巨大涅槃像
 このうち1.によれば、涅槃像の建立の計画は1913年に発起、同年10月には工事が始まり、また1915年には涅槃像のモデルが完成したものの、第一次大戦、関東大震災、満州事変などの勃発により計画は数年でストップしたとのこと。山陽新報の社長の西尾吉太郎氏は1930年に亡くなっていることからみて、テレビで放送されていた「工事の途中で社長が亡くなり計画は中止に」という経緯については真偽を確かめる必要がありそう。また、「その後地元の石工さん松下与一が計画を継承した」という話については、1.の中に、
松下は、最初の3年間を荒削りに費やし、最初に仕上がったのが眉毛で長さ1.5m。続いて1年半がかりで1.5mの口、そして、鼻、耳が形を現し、約10年間で顔部分の約80%が完成する。しかし、1900年生まれの松下も寄る年波に勝てなかったのか、顔の輪郭を作る爆破作業中に苦労して彫り上げた眉毛を吹っ飛ばし、火災を発生させ礼拝堂も全焼。更に腰を痛めて10ヶ月間入院。1977年、佐藤【西尾吉太郎さんを義祖父とする岡山金属の佐藤恒太】から作業中止命令を下されてしまった。
という経緯が記されていた。なので「石工さんが亡くなったために工事中止」というTVの説明も少々疑わしい。
 ちなみに、牛ヶ首島は香川県の島だが、岡山県の沖合1kmほどのところにあり、潮流の影響がなければ泳いで渡れそうな近さ。

 なおこの回では、他に、

●岡山県では21〜99を数えるとき「じゅう」と省いて発音する【ニジュウイチ、ニジュウニ、ニジュウサン、...ではなくニーイチ、ニーニ、ニーサン...】。100以降は普通の数え方に戻る。

という話題を紹介していたが、私自身は岡山に住んで30数年になるものの、そういう数え方を耳にしたことは一度もない。


2022年2月3日(木)



【小さな話題】令和の寺子屋「生命って何だろう 生物学者・福岡伸一」その3 鶏肉を食べたら鶏肉人間?

 昨日に続いて、NHK-Eテレで1月30日の16:15〜17:00に放送された表記の番組についての感想。

 2月1日の日記で、食べ物の分子が体のあちこちに取り込まれ、その一方で、体を構成していた同じ量の分子が対外に排出されるということ、つまり体を構成する分子は次々と置き換わっており、
1週間もたつと1週間前の君たちと今の君たちは別人になっている。数ヶ月経つととかなり変わっているし、1年も経つと全く違う人になっている。だから、1年ぶりに会ったときに、「やあやあお久しぶりですね。全然お変わりありませんね」と言うけれど、本当は、お変わりありまくっていて、1年も経つと別人になっている。
と説明された。また、今朝食べた御飯の成分はもう体の一部になっているという話に関連して、受講していた小学生から「じゃあ僕 今鶏肉状態ってこと?」(朝鶏肉を食べていれば鶏肉人間になっている)という声が出ていた。

 もっとも、この「分子の入れ替わり→別人になっている」という解釈には少々誇張があるように思う。
 確かに、食べ物や体を構成する物質を分子レベルで解析すれば入れ替わりは起こっているが、鶏肉を食べたから鶏肉人間になるというわけではない。私たちの体は細胞から構成されており、それぞれの細胞にはそれぞれの人ごとに固有のDNAが組み込まれているのである。鶏肉を食べてもその鶏のDNAに置き換わるわけではない。いったん消化吸収されたあとで、摂食者自身のDNAを含んだ細胞に作り替えられていくというプロセスが必須となっている。
 ここで、将棋とチェスの駒を例に考えてみるとよいかもしれない。
  1. チェスの駒は、駒自体が見方と敵で色分けされていて、相手の駒を持ち駒にすることはできない。
  2. 将棋の駒は、それ自体は敵も味方もない。盤上に置かれた向きだけで敵か味方かが決まる。相手の駒を取れば、他の持ち駒と全く同様に見方の駒として使うことができる。
食べ物や体を構成する分子自体は、分子レベルで見るならば、1個の分子が生体の一部なのか食べ物なのかは区別できないので、将棋の駒と同じようなものと言えるが、細胞レベルで見れば、それらははっきり区別できる。なので、チェスの駒のように最初から色分けされている。食べ物が体の一部になるということは、チェスのルールを持ち駒を使えるというように変更したようなものだろう。といっても、相手の駒をそのまま使うわけにはいかない。味方の駒と同じ色に塗り替える(=消化、吸収、細胞分裂)というプロセスがどうしても必要であろう。いずれにせよ、分子レベルではどうあれ、DNA自体は1週間経っても、数ヶ月経っても、1年経っても変わらない。上掲で、「やあやあお久しぶりですね。全然お変わりありませんね」というのは、分子レベルでは確かに「お変わりありまくっている」だろうが、相手をDNA鑑定した上で「全然お変わりありませんね」と挨拶するのは100%正しい。

 このほか、私たちの体は分子レベルで刻々と入れ替わっているとはいっても、すべてが同じスピードで入れ替わるわけではない。例えば虫歯は健全な歯に入れ替わらないし、卵子になる卵母細胞は、女性が一生涯かけて排卵するすべてを胎児のときに生産し終わって体の中に蓄えられているという【2021年4月12日の日記参照】。なので、シェーンハイマーの「生体は高度に組織化された軍隊のようなもの。軍隊を構成する兵士は常に入れ替わっていくが高度に組織化された軍隊そのものは維持される」という喩え【2022年2月2日の日記参照】は、やはり、みずからの断り書き、「生体構造の動的状態のある面だけしか語っていない。」というのは正しいように思われる。兵士の入れ替わりでは、兵士自身のDNAまでを軍隊特有のDNAに置き換えるわけではないからだ。

 次回に続く。