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室内の鉢物の灌水に使っていたプラスチック製の水差しが水漏れするようになり、よく見たら側面に細いヒビが入っていた。私の記憶では、この水差しは、1984年頃に96円で催事販売のセールで購入したもので、38年間も使い続けたことになる。その後出現した固定型の100円ショップを含めて、100円ショップ型商品の中でこれほど長期間使い続けた商品は他にはない。 |
【連載】チコちゃんに叱られる!「おかずのパセリ」「路線バスのボタン」 4月1日【岡山は4月2日】に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この回は、
まず1.のパセリは「濃い緑色だから」と説明された。パセリが日本に入ってきたのは18世紀頃であったが、一般の日本食には合わないことからあまり普及しなかった。西洋料理ではパセリはみじん切りしてふりかけたりソースに加えられており、茎ごと添えるのは日本くらいであるという。この添え方を考案したのは、千切りキャベツを考案した木田元次郎であるという。カツとキャベツだけでは間が抜けた感じがするので、濃淡があり引き締まる感じを与えるパセリをそのまま添えるようになった。なぜパセリが選ばれたのかについては、当時日本に入ってきた野菜の中で、生のまま食べられる濃い野菜はパセリだけだったためとされた。 さまざまな野菜の中で、パセリは、カルシウム、カリウム、鉄の含有量がトップとなっており、他にもβ-カロチン、ビタミンB2、ビタミンC、ビタミンK、食物繊維などを多く含む。また香りの基となるピネンには抗菌作用があり、食中毒や口臭を予防する効果があるという。そのいっぽう、「パセリは栄養価が高いため、摂り過ぎると内臓に負担がかかり体調不良を起こす可能性がある」とも警告された【但し、1日に200グラム以上は摂り過ぎないようにしなさいという意味で、料理に添えられるパセリは1グラム程度であるため通常は問題ない】。 私自身は、料理に添えられた生のパセリはそのまま食べている(刺身に添えられる大葉も同様)。もっとも学生時代はあまり口にしなかったように記憶している。これはパセリが嫌いだからではなく、前の人が食べ残したパセリを洗って再び添えているのではないかという疑念があったためだった。フードロスを避けるという観点からは望ましいことだろうが、衛生上イマイチ信用できなかった。 2.の路線バスについては「女性が夜働けなかったから」と説明されたが、これはガッテンがいかなかった。 谷内正往先生(大阪商業大学)によると、
しかし、乗客が運転手に挙手や声で「降ります」と意思表示することは困難であったため、降車ボタンが導入された。 降車ボタンは、当初は、ボタンを押すとブザーが鳴って運転席のランプが光る仕組みになっていたが、昭和30年代からは、乗客がボタンを押すとボタン自体が光る降車ボタンが登場した。 以上が放送の説明であったが、私は、単に「ワンマンバスが誕生したのは合理化、人員削減」とすれば十分であり、「少年車掌」が女性車掌に変更された経緯や、労働基準法により「女性が夜働けなかったから」とするのは本質的な理由では無いように思う。もし労働基準法による制約を避けるためであるなら、夜間の運行に限って男性車掌を雇用するか、男性運転手の一部が夜間に車掌として勤務するだけで十分なはずである。 ちなみに、私が物心ついた時には、ボンネット型の乗り合いバスは運転手と車掌の2人で運行されていた。ウィキペディアによれば、東急バスでワンマンカーが導入されたのは1961年であり、全車ワンマン化は1973年であったという。いっぽう、東京の都電や京都の市電のワンマン化はもっと遅かったような気がする。なお路面電車の車掌は男性ばかりであったがその理由はよく分からない。 放送では、この話題の最後のところで、
日本一距離の長いローカル路線バスと言えば、太川・蛭子コンビの『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の第21弾で「紀伊半島ぐるり! 大阪 堺〜三重 鳥羽」が設定されたことがあった。この時は鳥羽にたどり着けず失敗に終わっていたが、この大和八木発新宮行きに乗車していれば楽々たどり着けたはずであった【立ち寄り指定地の潮岬までは新宮から往復。もっとも現在はこの区間の路線バスは廃止されたようだ】。 次回に続く。 |