じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 今年のGWは妻の実家のある北九州に一週間ほど帰省した。気がかりだったのはベランダや室内に育てている鉢物であったが、アジアンタム、ニオイバンマツリ、オリヅルランなど一部が萎れかけていた程度で枯死するほどの被害は無かった。気象庁の資料を見ると、今年の岡山は、晴れの日が多かったものの、最高気温が25℃を超えたのは5月5日の1回のみであり、室内の風通しのよい場所に移動しておけば乾燥を防ぐことができる状況であった。

2022年5月08日(日)



【連載】チコちゃんに叱られる!「小学生の黄色い帽子」

 5月6日に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この回は、
  1. 小学生が黄色い帽子をかぶるのはなぜ?
  2. ライオンのオスにたてがみがあるのはなぜ?
  3. 【CO2削減のコーナー 「あなたの常識をくつがえすかも!?子どもの大発見!」】太陽が西から昇って西に沈む場所がある
  4. なぜ子どもは秘密基地を作りたがる?
 本日はこのうちの1.の「黄色い帽子」について考察する。

 「黄色い帽子」導入のきっかけは、放送では「坂下さんが西部劇を見たから」と説明された。坂下さんというのは、和歌山県警和歌山西署に勤めていた坂下敏郎という警察官で、マイカーブームが起きた昭和30年代に子どもの交通事故が多発していたことに心を傷めていた。昭和34年には、東京では学童擁護員(愛称「緑のおばさん」)が創設されていたが、予算の少ない和歌山県では、坂下さんの提案は受け入れられなかった。坂下さんがたまたま気分転換で西部劇の映画を見た時、大草原に現れたカウボーイがかぶっていた帽子が目にとまった。知人の子どもに帽子をかぶせて300m離れたところからの視認の実験を繰り返したところ、黄色の帽子が最も目立つことが分かった。背の低い子どもは車体の死角に入りやすいので、体の中で一番上に位置する頭部に目立つ色の帽子をかぶせることは理に適っていた。こうして昭和35年(1960年)4月に、和歌山西署は管内の小学生や園児に黄色い帽子の着用を呼びかけた。この頃、スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」という映画主題歌が流行し、後押しとなった。その後、「大流行の黄色い帽子」という見出しの新聞記事(朝日新聞、1962年4月18日)などによって黄色い帽子の効果が全国に広まり、普及していった。じっさい、15歳以下の交通事故死者数は、1960年をピークに減少していった。昭和37年(1962年)7月1日には、国民安全の日に際して、時の内閣総理大臣・池田勇人から坂下敏郎さんに表彰状が送られたが、現職の警察官がこの表彰状を受けるのは異例であったという。現在、交通事故による死者数は5分の1まで減った。そのすべてが黄色い帽子のおかげとは言えないが少なくともその一翼を担ったことは確かであろうとまとめられた。

 ここからは思い出話になるが、放送でも紹介されていた「緑のおばさん」は、1959年11月19日に東京都において制度が始まったという。私が小学校に入ったのは1959年4月であり、校門近くに立っておられた記憶がある。ある時、自転車で学校周辺を廻っていたところ、古いアパートの前で、顔に見覚えのある緑のおばさん2人が洗濯物を干していて、ずいぶんと貧しい生活をしておられるのだなあと思ったことがあったが、リンク先によれば、
1959年11月19日に東京都においてこの制度が始まった。まだ女性の職場が少なかった戦後復興期に、寡婦の雇用対策として創設された職業である。創設当初、勤務時間は午前2時間、午後3時間で、日当は315円であった。1961年以降、各地に広がった。
とのことである。
 いっぽう、私が小学生の時代には、東京では黄色い帽子は推奨されておらず、私自身は一度もかぶった記憶が無い。

 現在、小学生が黄色の帽子をかぶっているのかどうかは、通学・下校の時間帯に小学校の近くを通ることが無いため、確認できていない[]。また、「緑のおばさん」は岡山では一度も見たことがなく、代わりに保護者が当番制で立っておられるように見えるが、これまた、確認できていない。
追記]5月9日のウォーキング中、ちょうど低学年の小学生が下校していたが、20名ほどの中で黄色い帽子をかぶっている児童は1人もいなかった。黄色以外の帽子は半数程度。全体に地味な色の服ばかりだったが、ランドセルのカバーや上着に反射材のようなものを付けている児童を数人見かけた。

 次回に続く。