じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



10月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る



クリックで全体表示。


 半田山植物園の通用門脇にある花桃。春には3本の樹が左から濃い桃色、白、薄い桃色の3色の花を咲かせるが【写真右、但し2021年3月の写真】、10月の落葉の時期にも、花の色に対応して異なる色に紅葉する【写真左】。

2022年10月22日(土)



【連載】チコちゃんに叱られる!「焼き芋の甘味」「相撲の東西」

 10月21日に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この回は、
  1. サツマイモは焼くとなぜ甘くなる?
  2. 相撲が東と西に分かれるのはなぜ?
  3. 【CO2削減のコーナー】ならべかえクイズ!これ何年ぶりでSHOW
  4. おやつはなぜ3時?
という4つの話題が取り上げられた。本日はこのうちの1.と2.について考察する。

 まず1.のサツマイモの疑問だが、私は、熱によりサツマイモのデンプンが糖分に変化するのではないかと思っていたが、放送では「かめばかむほど甘くなる現象」と説明された。放送によれば、サツマイモは水分を別にすれば、9割以上がデンプン、残りはタンパク質などから構成されている。デンプンのまま生で食べても甘くは無い。しかしサツマイモの中にはアミラーゼが含まれており、熱を加えると活発に働いてデンプンを麦芽糖に分解する。これは、口の中でご飯を噛むときに唾液のアミラーゼの働きでご飯が甘くなるのと同じ原理であるということであった。私の考えはデンプンが熱で直接糖分に変質するというものであるというものでアミラーゼの介在は含まれていなかったので不正解になりそうだ、
 放送ではさらに、焼き芋屋さんのサツマイモは甘いのに電子レンジで調理しても甘くならないのはなぜか?という疑問が取り上げられた。放送によれば、アミラーゼは65℃より低いと働かず、75℃以上では壊れていく性質がある。いっぽう電子レンジではすぐに高温になってしまうため、アミラーゼが壊れてしまう、と説明された。放送では、茨城県・つくば市の超人気焼き芋屋さんの焼き芋が紹介された。その焼き芋は蜜(麦芽糖)がしみ出しており、糖度は40.5。これは電子レンジで作った焼き芋の糖度12.9度ばかりでなく、桃(糖度15度)やマンゴー(糖度17度)と比較しても段違いの甘さになっていた。この焼き芋屋さんが芋を焼く温度は70℃前後に保たれており、アミラーゼが活発に働く温度が長時間維持されていることが確認された。
 放送ではまた、自宅で簡単にできる甘い焼き芋作りが紹介された。
  1. サツマイモを丸ごとキッチンペーパーでまく。
  2. 水で濡らす。
  3. アルミホイルで包んでオーブントースターで、200℃で30分以上、できれば120分熱する。
というものであった。

 ここからは私の感想・考察になるが、サツマイモは私の朝食時の常食となっており、家に居るときはもちろん、元日でも欠かさず食べている(但し、旅行中は除く)。
 私自身は甘さにはあまりこだわらないので、生のサツマイモを小さめに切って電子レンジで加熱し、その後さらにオーブントースターで加熱したものを食べている。1回で4〜5日分の分量を調理しているが、翌日以降は「解凍設定」による低温で再加熱しているが、毎日繰り返して加熱しているうちに干し芋状態になりかなり甘くなることがある。これはおそらくアミラーゼの働きではないかと思われる。
 なお、冬場は近隣のドラグストアで焼き芋を販売していることがあり、これはかなり甘い。芋から蜜が出ていることもあるので、もしや、芋の中に蜜を注入しているのではないかと疑ったりしていたが、今回の放送で、焼き方次第では蜜でベトベトになるほど甘くできることが分かり、蜜の添加ではないことが納得できた。




 2.の大相撲の東西の設定については、私は、偉い人が北側に座って南向きに観覧する習慣があるため、必然的に左側が東、右側が西になるものだと思っていた。いっぽう放送では全く異なり「東さんと西さんが同じくらい強かったから」と説明された。

 今回の放送で初めて知ったが、今の大相撲のルールは織田信長によるところが大きい。【ウィキペディアでは大相撲の歴史は主として江戸時代以降の興業の歴史が記されており、織田信長については観戦の絵図が掲載されているだけであった。相撲協会の公式サイトでも「織田信長は深く相撲を愛好し、元亀・天正年間{1570〜92年}に近江の安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えた.」とだけ記されており、相撲のルール化については触れられていなかった。】
 いっぽう放送では、まず相撲の始まりとしては、古事記(712年)にもその記載があり、その後、五穀豊穣を願う「素舞(すまい)」という神事として行われ、さらに鎌倉時代になると武術として広まった、と説明された。しかしそれらの時代にはまだ土俵は無く、東西に分ける文化は無かったという。安土桃山時代に入り、大の相撲好きの織田信長は公私を問わず相撲に熱中した。当時はまだどちらかが倒れるまで取組が続いていたが長時間に及ぶことがあり、短気な信長は、力士の周りを囲ませてそこからはみ出したら負けになるという人方屋(ひとかたや)を配置した【但し、諸説あり】。このほか、勝敗でもめることが多かったため、行司をもうけて勝敗を決めるようにした。
 信長が好きだった相撲の1つに「竹相撲」というのがあった。1本の竹の両端をつかみ逆方向に捻るという力比べであったが、当時、「伝蔵」と「馬次郎」という2人の強者がおり、信長は両者の健闘をたたえて、伝蔵には「東伝蔵」、馬次郎には「西馬次郎」というように苗字を与えた。この強者たちの子孫は今でも残っているということであった。

 ここからは私の感想・考察になるが、土俵の歴史についてはウィキペディアにも別途解説があり、そこでは織田信長の発案ではなく、
相撲において古来、相撲節会に土俵なるものはなかった。『相撲伝書』によると鎌倉時代に見物人が直径7 - 9メートル(4 - 5間)の輪を作り、これを「人方屋」と称したという。これが土俵の起源である。江戸時代に大相撲興行が始まり、「人方屋」では特定の力士の贔屓が手を出して勝負を妨害するなど喧嘩が絶えなかった。このため、まず寛文年間(1661 - 1673年)にリングのように4本の柱の下に紐などで囲ったものになった。それを俵で囲んだものとなり、四角い土俵になった。なお四角い土俵は各地の神社や南部相撲などに現存し使用されている。
と説明されていた。また当初は四角い土俵が存在していたようであった。
 いずれにせよ、織田信長が伝蔵と馬次郎に「東」と「西」という苗字を授けたという話は、そもそも両力士が東西で向き合って対決をしたことに由来しており、おそらく信長は北側から観戦していたのではないかと思われる。であるとするなら、大相撲の東西の配置は、それ以前から決まっており、何らかの呼称があったはず。伝蔵と馬次郎に「東西」を授けたことが東西力士の由来ではなく、先に「東西」があってそれに基づいて苗字を授けたと考えるのが妥当ではないだろうか。

 なお、冒頭に述べた「偉い人が北側に座って南向きに観覧する習慣があるため」というのはあくまで私の想像であって、実際にそのような習慣があるのかどうかは分からない。但し、京都御所の紫宸殿や中国の紫禁城などは、南向きに配置されている(首里城のように玉座が西向きの場合もあるが)。

 次回に続く。