じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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年越しそば。東京生まれ・育ちの私にとっては、年越しそばというとざる蕎麦が思い浮かぶが、結婚後はもっぱら写真のような温かい蕎麦ばかりを食べている。

2023年1月1日(日)


【小さな話題】2つの「じぶん更新」の点検/覚悟から境地へ

 毎年、元旦の最初の活動としてWeb日記に「新年の抱負」らしきものを書くことにしているが、老い先が短くなってきたいま、これといった夢や期待のようなものは何もない。もはや、何かの目標を立ててそれに向かって邁進するという歳ではないし、「死ぬまでにこれだけのことはやり遂げておきたい」というような課題もない。

 そうは言っても決して、日々、行き当たりばったりにふらふらと生きるつもりはない。老後の羅針盤としては、昨年の元日で明示した「2つのじぶん更新」を日々実践するということが私の日々の活動の基本になると考えている。すなわち、
  1. 以前よりすぐれた機能を獲得すること。アップデートやアップグレード。記録更新。
  2. 以前と同じ状態をさらに続けること。免許更新、契約更新。
という「更新」2つの意味をそのまま実践することである。
 このうち1.はいわゆる成長モデルであり、発達、発展をめざすものであった。

 しかし、上掲の「免許更新」とか「契約更新」という言葉にもあるように、同じ状態を保ちその期限を延ばすこともまた「更新」である。昨年の日記にも述べたように、今後は2.の意味での「じぶん更新」、つまり、昨日と同じレベルのじぶんを可能な限り保ち続けることも大切であると考えている。とはいえ、加齢による体力・記憶力・判断力等の衰えには抗うことはできない。更新できる項目が減っていくことに対応して柔軟に「SOC」の方略をとっていくこともまた求められる。

 ということで、2022年に何が更新できたのかを振り返ってみると、まず1.の成長モデルに該当する「更新」としてあてはまりそうなのは、
  1. スマホの基本操作や、デスクトップパソコンとのデータの共有ができるようになった。
  2. スマホ決済が気軽にできるようになった。
  3. 4000メートル以上の山に登った(モロッコ・ツブカル山)。
  4. Web日記執筆を通じて、数学、生物学、宇宙、そのほか各方面の雑学的知識を拡大することができた。
といったところだが、さすがに1.の意味での更新は少ない。
 いっぽう2.の意味での更新は、当たり前の状態を続けているだけなのでなかなか気づきにくい項目が多いのだが、まだまだ、挙げようと思えばいくらでも挙げることができそうだ。とりあえず思いつくままに5つほど挙げてみると、
  1. 高齢者講習を受けた上で車の免許(ゴールド)を更新した。
  2. 健康診断や胃の内視鏡検査では異状が無く、まずまずの健康状態を更新した。
  3. 5時すぎに起床、21時頃就寝という規則正しい生活を続けることができた。
  4. この「じぶん更新日記」や、写真アルバム版の「楽天版じぶん更新日記」の執筆を、旅行期間を除いて毎日欠かさず執筆することができた。
  5. 毎日8000歩目標、雨天や旅行などで歩数の少ない日を含めて月平均で1日7000歩以上のウォーキングを続けることができた。
などとなる。
 もちろん、加齢により更新できなくなったこともある。例えば、車の免許は更新できたものの、加齢による視力の衰えによって今回から眼鏡着用が義務づけられた。また客観的な指標が無いので何とも言えないが、記憶力の衰え、特に名前を思い出す力や、新たに何かを覚えるという力は相当程度に衰退している。

 さて2023年の「じぶん更新」であるが、成長モデルにかかわる更新については、従来通り「Web日記執筆を通じて、数学、生物学、宇宙、そのほか各方面の雑学的知識を拡大する」ことと、機会があれば海外の辺境地への旅行に出かけたいと思っている程度であり、何が何でもこれだけはやり遂げたいというような目標は一切考えていない。「現状維持」の「じぶん更新」のほうも従来通りであるが、何らかの病気が見つかれば大きな制約を受ける恐れはあり、常に覚悟が必要である。ちなみに「覚悟」というのは、若い時期であれば武士道精神のようは堅固な覚悟が求められるところであるが、70歳代、80歳代、90歳代...というように歳を重ねていくと、何か重大な病気が見つかったような場合でも、「治るにこしたことはないが、治らなくても別段不平は言わない」という、「どっちでもいい精神」が自然に身についていくようである。仮に90歳を超えることができたとすれば、もはや死ぬのが嫌だとは思わない。「生きていても死んでいてもどっちでもいい」という境地に達するのではないかと思う。「覚悟」から「境地」への転換と言うべきものか。