じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 見る方向によって形が異なる岡山城。
  • 東側。後楽園の南東端のあたり。
  • 北西側。月見橋方面からの入口付近。
  • 南側。天守入り口付近。
↓の記事参照。


2023年3月8日(水)



【小さな話題】岡山城はスゴい!

 3月1日にNHK-BSPで放送された(初回放送は2021年4月2日)、

絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城 「岡山城」

のメモと感想。

 岡山城は私にとっては最も近場にあるお城であり、ベランダからも眺めることができる。現在の天守は1966年に復元されたものであり歴史的価値はあまりないように思っていた。私自身もそうであったが、大概の観光客は、岡山城を訪れるといっても天守の中の展示物を一通り見学して最上階から眺めを楽しむだけで帰ってしまうように思われる。しかし、最近、ウォーキングの一環として城内(烏城公園)を一周したり、街中で偶然お城の石垣が残る場所を見つけたりするうちに、かなり規模の大きいお城であるということに気づいた。この放送でもそうした見所がいくつが紹介されていた。

 放送によれば江戸時代の岡山城本丸には天守を初め30の櫓と3つの御殿が建てられていた。現在まで残っているのは月見櫓のみであり内部の様子が紹介された。本丸は「本段」、「中の段」、「下の段」に分かれているが、「下の段」は長らく整備工事が行われていて立ち入り禁止エリアばかりだった。リニューアルオープンした2022年11月に訪れた時に初めて全体を見渡すことができた。

 さて、この本丸の天守は、方向によって違った形に見えることで知られている。じっさい、こちらのアルバムからも分かるように、月見橋のあたりから眺める形と、南側の正面から眺める形は大きく変わっている。今回の放送でも、北、北西、南、東という4つの方向から眺めた時の形が異なることを示す比較写真が紹介されていた。
 このような不思議な形は、6階建ての天守の各階が異なる造りになっているためにもたらされた。
  • 1階:不等辺五角形
  • 2階:2辺は長方形、残りは不規則
  • 3階:十字形(一辺のみ斜め)
  • 4階:長方形
  • 5階:長方形(一部はみ出した部分あり)
  • 6階:正方形
このような構造になった原因は、もともとの地形にあった。本丸はもともと「岡山(柴岡山)」という花崗岩の岩盤の上に建てられた。その岩盤の形状に合わせたため、不等辺五角形にならざるを得なかったようだ。
 ちなみに、岡山城は「岡山」のほか、西隣の「石山」、北西にある「天神山(天満山)」の3つの丘から構成されているという。天神山は県立美術館の北側にあるがこれまで一度も訪れたことが無かった。次回はぜひ行ってみたい。石山のほうはこれまで特に意識したことは無かったが、城下のあたりから後楽園方面に徒歩で向かう時に何度も通り過ぎている場所であった。

 放送の中ほどでは、かつてのお堀の跡を示す「高低差」が路地裏に残っていることが紹介された。もっとも私が一人で歩いたら不審者に間違えられそう。岡山の城下町はかなり広い。その西の端は西川用水まで進出していたという。この西川を含めて、岡山城の西側にはかつては6つの堀や川がありお城を守っていたという。

 放送の後半では、

●なぜ後楽園は天守完成から100年も経ったあとで造られたのか?

という話題が取り上げられた。その理由は、旭川の改修にあった。もともと旭川はいくつかの流れに分かれていたが、その後1つの川にまとめられた。そのさい、後楽園にあたる岡山城の北側は川が南向きから東向きに曲げられたため洪水が起こりやすいエリアになっていた。その後、百間川が造られたことで水害がコントロールできるようになり、後楽園を造る土台ができた。こうした土木技術は、かつて宇喜多軍が備中高松城の水攻めの時に担った築堤技術から引き継がれたと推測されている。

 なお、岡山の基礎をつくったリーダー3人については、2022年11月2日の日記、およびその続編で取り上げたことがある。その3人というのは、宇喜多直家池田光政津田永忠であったが、いずれも今回の岡山城の発展に関わっている。