Copyright(C)長谷川芳典 |
※クリックで全体表示。 |
8月25日(金)の岡山は、南から湿った空気が入り雲の多い一日となったが、その割には透明度が高く遠くの景色まで見えていた。 写真は半田山植物園の展望台から見えていた四国山地。岡山市の南部には連なった山が無いため、黒い影は四国の山々であるとすぐに分かる。 |
【連載】チコちゃんに叱られる! 「畳の大きさ」 8月25日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。今回は以下の3つの話題が取り上げられた。本日はこのうちの1.について考察する。
さて、畳の大きさであるが、放送では「徳川家康が年貢をたくさんとりたかったから。」が正解であると説明された。 もともと畳の大きさは統一されておらず、平安時代は縦2m以上が一般的であった。江戸間は縦176cm×横88cm、京間は縦191cm×横95cmで、京間の8畳は江戸間の約9.4畳にあたる。 応仁の乱で焼け野原となった京都では復興のときに1間を6尺5寸とした家が建てられ始めた。織田信長は田畑を1間ごとに測量し年貢の量を決定した。また1間の家に合うように京間の畳がつくられた。 その後、徳川家康は年貢を多くとるために1間の大きさを6尺とした。1間四方あたりの年貢の量は決まっていたので、1間を狭く設定すればそれだけ多くの年貢が取れるためであった。これに合わせて江戸では1間=6尺の家が建ち江戸間の畳が広まった。織田信長と徳川家康の両方に忖度して生まれた中京間は縦182cm×横91cmであった。現在では新築の戸建てを建てる際は江戸間の畳が一般的になっている。 ウィキペディアにはもう少し詳しい記述があり、 間は元来、建物の柱と柱の間、すなわち柱間のことであり、長さの単位ではない。同一の建物内であっても柱間の寸法は必ずしも一定ではなく、たとえば古代の寺社などでは中央部の間が大きく、両端部では狭くなっていることも珍しくない。古来、建築時の寸法に用いる単位は尺(高麗尺、小尺)だった。となっていた。なので、織田信長の基準を家康が変えたのではなく、豊臣秀吉の時代にいったん6尺3寸となり、また江戸時代に6尺1分という基準もあったように思われた。 近代では、 1891年(明治24年)の度量衡法で1間=6尺と定義され、計量法施行法(昭和26年法律第208号)第 5条第 1号においても踏襲された[1]。同時に1尺 = 10/33 mと定められたので、1間は約1.8181818 mである。60間が町(丁)となる。また、1坪(歩)の面積の正方形の1辺が1間である。となっている。これにより、現在では取引または証明で使用することは禁止された。 なお、土地の価格などはいまでも「3.3平方メートルあたり」と表現されることがあるが、1辺が6尺の正方形の面積は正確には3.3058平米であり、1坪の広さは3.3平米よりも0.0058平米広いようである。これは7.6cmの正方形の面積に相当する。 ウィキペディアによれば、坪は日本で生まれた単位であるが、かつて日本の統治下にあった韓国や台湾でも使用されている。 台湾では、1945年に国民政府が、一部の政府文書を除き坪に変えて平方メートルを使用すると宣言したが、民間では今でも広く使用されている。 韓国では1961年の計量法施行によって、公式にはメートル法に移行している。しかし、土地・建物の売買には坪を用いる実態があったため2007年7月施行の改定計量法により、使用すると罰金が課せられるようになっているという。 「ポツンと一軒家」などの放送で田畑の面積を尋ねると、たいがいの人は今でも「反」や「町」で答えている。もっとも、
このほか、暖房マット(ホットカーペット)の寸法は、例えば176×88cmというように江戸間の畳に合わせたサイズになっていることが多いようだ。敷き布団のサイズは縦が210cmというのが一般的であるようだ。この大きさであれば、背の高い人でもはみ出すことはほぼ無さそう。 次回に続く。 |