じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 半田山植物園に向かう途中、路上で旗を振りながら行進している人たちを見かけた。その行進は半田山植物園の前で停止し、何かの説明を受けているようであった。最初はデモ隊のようにも見えたが、旗には「ウォーキング」の文字があり、どうやら岡山市内のウォーキングイベントの参加者であったようだ。
 このウォーキングの参加者には私と同世代の人たちも含まれているように見えた。何らかの手続をとれば私もその仲間に入れてもらえる可能性があると思われたが、私自身はたとえ勧誘を受けたとしてもそのような集団イベントに参加したいという気持ちにはなれない。あくまで、気の向いた時間に、気の向いた場所に、一人で考え事をしながら歩くことが楽しみになっている。といっても参加者の人たちにケチをつけるつもりは毛頭ない。一緒にワイワイガヤガヤ喋りながら歩くことを生きがいにしているのであればそれでよい。人それぞれということだ。
 もっとも私のような孤独志向者は、いずれ身辺自立が困難になった時に問題に直面する。妻が健在で面倒をみてくれるうちは何とかなるが、万が一妻に先立たれて独り暮らしともなれば、何らかの公的介助を受ける必要が生じる。さらにグループホームのようなところに入居せざるを得なくなれば、イヤでも他の入居者たちと、会話の場を盛り上げるために気を遣わなければならなくなる【←認知症の人たちばかりとなれば、皆好き勝手に喋るだけで会話が成り立たないという可能性もあるが】。
 ま、人生の終わり方はさまざまであって先のことをくよくよ考えてもしようが無いという気もする。自立した孤独生活ができる限り長続きできるよう、健康維持に努めるほかはあるまい。



2023年12月3日(日)




【連載】チコちゃんに叱られる! 「武士のちょんまげ」

12月1日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この日は、「新BSスタートスペシャル」と題して、地デジの「NHK 総合」と「NHK BS」、「NHK BSプレミアム4K」で同時生放送が行われた。生放送ということで、チコちゃんの顔はCGではなく着ぐるみとなっていたため、いつもとは違った表情に固定されていた。また、いつもはチコちゃんと岡村さんが手をつないでスタジオに走り込むシーンから放送が始まるのだが、岡村さんがアキレス腱を切ったとのことで、チコちゃんだけがスタジオに走り込むいっぽう、岡村さんのほうは他のゲスト3人とともに着席したままチコちゃんの入場を迎えていた。
 放送の冒頭は、「NHK新BSスタートおめでとう」という祝賀ムードに包まれていたが、今回の改変は要するに、BSPが廃止され、従来のBS1とBSPの内容が縮小・統合されたというだけのこと。受信料がいくらか安くなることはありがたいが、放送時間が物理的に半分になる以上、どう理由づけをしてもこれまで以上に放送内容が充実するとは思えない。また、4K放送は、我が家の受信・録画環境では一時的にHDDに録画できるもののDVDやBDにはダビングできないという問題点がある。それと我が家のテレビはサイズが小さいため、4Kでも2Kでも見え方には全く違いがみられないため、4Kに切り替える手間がかかるぶん、不便になったという気もする。

前置きが長くなったが、この回に取り上げられた話題は次の3つであった。本日はそのうちの1.について取り上げる。
  1. 武士がちょんまげなのはなぜ?
  2. サバンナにたくさん野生動物がいるのはなぜ?
  3. なぜ同時通訳ができる?


 さて、1.のちょんまげの理由については、放送では「ムレるから」が正解であるとされた。根岸茂夫さん(國學院大學・名誉教授)によれば、
  1. 武士はかぶとをかぶるとき、まず萎烏帽子(なええぼし)をかぶり、その上から5〜6kgの重さのかぶとをかぶった。
  2. 平安時代に冠や烏帽子が流行し、それがずれないように髪を集めて烏帽子の中に入れていた。
  3. 室町時代になるとだんだん戦いが増え、武士はそのたびにかぶとをかぶるようになった。そうするとますますムレるようになるため、髪を取ってしまうようになった。室町時代に書かれた『貞丈雑記』には、「かぶとをかぶると蒸れて頭に血がのぼるので頭の上を丸く剃った」という記述がある。しかし当時丸坊主にするのは僧侶と決まっていたので、僧侶と区別するため武士は髪を残した。
  4. 剃り上げた部分は「月代(さかやき)」と呼ばれ、そこに「髷」を乗っけたちょんまげが誕生した。月代を作ることは「いつもで戦える」という意思を主君に示すためであった。
  5. 戦国時代になり庶民も戦に駆り出されるとちょんまげが一般に広がる。江戸時代にはファッションとして定着。髪型で身分がすぐに分かるという利便性もあり、ちょんまげは一般の人々に根づいた日本の文化となった。
 放送ではさらに、明治に入ってからのちょんまげ廃止の経緯が紹介された。
  1. 明治政府はちょんまげの断髪を推進したが岩倉具視は断髪に反対派だった。
  2. 政府にはアメリカやヨーロッパとの不平等な条約への焦りがあった。西洋と対等な関係を築くために岩倉使節団が渡航。使節団員は断髪と洋服であったが、岩倉はただ一人、髷と和装で渡米した。
  3. 岩倉の使節団は歓迎ムードに思えたが、1872年1月17日づけのニューヨークタイムズには「日本の全権大使は和装に固執している」という批判記事が掲載されたり、岩倉を嘲笑する風刺画が登場したりした。またアメリカ留学中の息子たちからは「文明開化を目指す国の使節としてはふさわしくない」と言われた。
  4. そこで岩倉は滞在中のシカゴで断髪し、服装も蝶ネクタイをつけた洋装に切り替えた。
  5. 岩倉断髪の知らせは日本にも衝撃を与えた。明治6年、ついに明治天皇が断髪しちょんまげ文化は終わりを迎えた。
 明治以降の断髪については、私自身は「ちょんまげを禁止する布告が発せられたため」であると思っていた。小学校の社会科の授業で「断髪令は今でも有効であり、今でもちょんまげをすると法律違反になる」という話を聞いたことがあったと記憶している。しかし改めてウィキペディアを閲覧したところ、布告の趣旨は「ちょんまげ禁止」ではなく「髪型を自由にしても構わない」ということであったようだ。抜粋・引用すると以下のようになる。
  • 幕末に洋式軍制の導入が始まって以後、髷(まげ)を結わずに散髪する風潮が広まりつつあったが、この日「散髪脱刀勝手たるべし」として髪型については自由にし、華族・士族が刀を差さなくても構わないとした(平民の帯刀については同年12月27日(1871年2月16日)に改めて禁止令が出されている)。なお、例外規定として「官吏等礼服の時は帯刀すべし」とされている。つまり、刀を差すことがそれまでの礼装だったのである。これを受けて明治6年(1873年)3月には明治天皇も散髪を行い、官吏を中心にこれに従う者が増えていった。
  • 散髪脱刀令は「髪型を自由にして構わない」という布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではない。
  • 実際には改革推進派の県令(県知事)が着任した地域では丁髷は厳しく取り締まられた。 明治6年(1873年)3月敦賀県(現在の福井県)で、断髪令に反対する3万人が散髪・洋装の撤廃を要求した一揆が発生し、6人が騒乱罪で死刑となっている。この一揆は、嶺北地方の坂井・大野・今立郡に及んだ。
  • 女性の髪型も明治時代になり西洋風の束髪へと次第に変化した。散髪脱刀令との関係では、明治5年4月5日(1872年5月11日)に東京府が「女子断髪禁止令」を出している。これは散髪脱刀令の趣旨を「女子も散髪すべきである」と誤解した女性が男性同様の短髪にすることがあったためである。
 放送では、ちょんまげを希望する視聴者の男性が生放送中に髷姿に変身した様子が紹介された。私自身も一生に一度くらいは髷を結ってみたいという気もするが、今の時代であれば、画像の加工で、髷姿であれ女装であれ銅像であれ、その気になればなんでも自分の顔を埋め込むことができるので、わざわざじっさいに試す必要はなさそう。

 次回に続く。