じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2月19日の朝、半田山植物園内を歩いていたところ、「ただいまから園内放送設備の点検のため『蛍の光』が流れますが、閉園ではありません。」というような放送が聞こえ、その後、「まもなく閉園時刻になります」という音声とともに音楽が流れてきた。
 しかし、じっさいに流されたのは4拍子の『蛍の光』ではなく、3拍子の『別れのワルツ』だった。ちなみにこれらの曲は、スコットランド民謡もしくは非公式準国歌のオールド・ラング・サインがもとになっているという。こちらの動画で聞き比べることができる。


2024年2月20日(火)




【連載】ヒューマニエンス「“死の迎え方” ヒトの穏やかな死とは」 (4)下顎呼吸、エンドルフィン

 昨日に続いて、2月13日に再放送された、NHK『ヒューマニエンス』、

「“死の迎え方” ヒトの穏やかな死とは」

についてのメモと感想。

 放送では続いて、なぜヒトだけが長い老後があるのか?という話題が取り上げられた。スタジオゲストの小林さんは、進化の過程で老いた人が必要だったからと説明された。人の営みでは知識や技術の継承が必要であり、高齢者がいることが有利に働いた。なので現代においても、シニアは社会的使命を果たしていかなければならないと論じられた。
 こうした見方から言えば、定年退職後に隠居人生活を始めた私などはふとどき至極ということになるかもしれない。もっとも、この「高齢者は社会的使命を果たすべきだ」という主張は、裏を返せば、「社会的使命を果たせなくなった高齢者は姥捨山に送り込むべきだ」ということにも繋がりかねない。ま、現実においても、姥捨山のような劣悪な高齢者施設が無いわけではないが...。
 高齢者を大切にする文化や制度を守ろうとするのは、いずれ自分も高齢者になるという心情が働いているためではないかと気もする。65歳になった人は無条件に姥捨山に送り込むという制度があったとしたら、若者世代の年金・健保の負担は遙かに軽くなるはずだ。その代わり、自分が65歳になった時には同じ目にあわなければならない。




 次に取り上げられたのは、「死ぬ時は苦しいか?」という話題であった。人が死ぬ直前の特徴的な呼吸の1つに「口や下顎を喘ぐようにパクパクして必死に気道を広げ、空気を体内に取り入れようと呼吸する」という『下顎呼吸』がある。その音声は苦しそうにも聞こえるが、逆に穏やかな状態だと解釈する専門家もいる。苦しさや痛みなどを感じた時には『脳内麻薬』の1つエンドルフィンが脳内で分泌され、さまざまな部位で働き、苦痛を緩和する作用や多幸感をもたらすと考えられている。エンドルフィンは血液中に酸素が不足した時にも出るという。ある論文では、動脈血の酸素分圧と、β-エンドルフィン分泌量には負の相関があり、酸素濃度が低くなるにつれエンドルフィンの分泌量が高くなるというデータが示されていた。遠藤晶吾さん(東京都健康長寿医療センター研究所)は、「死の直前の下顎呼吸は、呼吸としては殆ど機能しておらず、血中の酸素濃度が低下する。そうすると脳内麻薬であるエンドルフィン類が大量に出ることで穏やかな気持ちでいるのではないか」と推察された。
 スタジオゲストの川上嘉明さん(東京有明医療大学)によれば、死亡直前の下顎呼吸は全体のおよそ50%とみられる。無呼吸の時間がしだいに長くなり、パク、パクとして、最後は息を吸って止まる。このことから、スタジオでは、赤ちゃんは息を吐いて生まれ、死ぬ時は吸って終わるとコメントされた。またこのことから「息を引き取る」という表現が妥当であるとも指摘された。
 川上さんによれば、60〜70年前までは、看取りは家庭の出来事であった。その後病院での看取りが増加。示されたグラフ【厚労省 人口動態統計2022に基づく】によれば、
  • 1953年には、自宅での死亡が69.1万人。病院での死亡は7.5万人
  • 1970年代半ばには、自宅と病院がどちらも30万人前後でほぼ同数。
  • 2022年には、自宅では27.3万人、病院は101.1万人、老人ホームが17.2万人
というように推移していた。これにより、亡くなるということがアウトソースしてしまって非日常的なことになってしまった。もう一度、看取りを自分たちの課題として正面から捉えることが必要であると強調された。

 ここからは私の感想・考察になるが、エンドルフィンに作用により死の直前は苦痛が軽減され多幸感がもたらされるかもしれないというのは、本人ばかりでなく看取る人たちにとっても救いにはなる。もっとも酸素濃度が低下するとエンドルフィンの分泌量が増えるというのがどの程度の効果をもたらすのかどうかイマイチ分からないところがあった。私自身はもちろん「死の直前」を体験したことは無いが、チベット、ボリビア、キリマンジャロなどで標高5000m以上の高地に滞在した時には、血中酸素濃度は低下しても多幸感が生じることは無かった。典型的な症状は頭痛、吐き気など。もっとも私自身は幸い高所に強い体質だったようで、測定値が90を下回ったことは殆ど無かったと記憶している。
 また、放送で紹介されたグラフは、

Yanagida & Corssen (1981). Respiratory Distress and Beta-Endorphin-Like Immunoreactivity in Humans. Anesthesiology November, 55,515-519.

という論文に基づくものであったが、原典を閲覧したところ【無料で閲覧可能】、対象者は20人のみであり、相関係数はマイナス0.80、p<0.01になっていたとはいえ、サンプルが少なすぎるように思われた【動脈血酸素分圧が50以下でエンドルフィン分泌量が100pg/mlというのは1人のみ】。

 ライオンに襲われたヌーは、首根っこを噛みつかれてもがき苦しむが、最期は恍惚状態に陥ると聞いたことがあった。もっとも絞首刑を執行された人は相当に苦しむとも聞く。また、本題の老衰についても、じっさいはかなり苦しいという話はネット記事でもたまに見かける。いずれにしても、苦しみが一定限度に達した時には昏睡状態となって意識を失う。その時点ではもはや苦痛を感じることはあるまいと思われる。

 そもそも死が苦痛ではなく多幸感であったとすると、もっと多くの人がみずから死を選ぶようになるはずだ。生物である以上、生よりも死を志向するようでは生き残ることはできない。やはり、どんなに辛くても、死ぬのは苦しいからイヤだという仕組みがあってこそ、生きながらえているのではないだろうか。

 次回に続く。