じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2月26日早朝の岡山はよく晴れ、備前富士(芥子山)の後ろから太陽が昇る様子を眺めることができた【写真左】。日の出を眺めることができたのは、2月17日【写真右】以来であり、備前富士の山頂から太陽が昇る『ダイヤモンド備前富士現象』を眺めることができないまま、日の出の方位が備前富士北側の山腹まで移動してしまった。【観測場所を変えていけば、『ダイヤモンド備前富士現象』は一年中、岡山市内のどこかで見られるはずだ。】

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2024年2月26日(月)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(4)ローティの『contingency』(1)言語の偶然性

 昨日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 本日から本題に戻り、ローティ自身の『contingency』がどういう概念であったか、考えていくことにしたい。もっとも私が拝聴した限りでは、放送の中では『contingency』については詳しい説明はなかったように思う。といって、『哲学と自然の鏡』や『偶然性・アイロニー・連帯』の原書もしくは翻訳書は手もとに無いし、わざわざ購入して読破するほどの意欲はない。

 ということであくまでウィキペディア頼りの耳学問にとどまるが、原書のPart1では、『contingency』は以下のように要約されていた。リンク先は英文であるため、DeepLやGoogleの機械翻訳を試みたが、どちらも正確に意味を伝えていないように思われたので、以下、私自身で訳し直してみた。かなり意訳しているが、なにぶん専門外なので誤訳の可能性もある。

1)The contingency of language【言語の偶然性】
 この章で、ローティは、すべての言語は偶発的に形作られたと論じている。なぜなら、我々が世界について「真か、偽か」と判断できるのは、それが言語として記述された場合にのみ可能となるからだ。世界の記述は人間によってなされ、その上で真偽の判断が行われる。つまり、真か偽かというのは、対象自体に内在する本質によって決まるのではなく、あくまで人間が行う言語的な記述の範囲で決められるのである。例えば、草が緑かどうかという自体は真でも偽でもない。しかし、ある人が「この草は緑だ」と言明し別の人がそれに同意すれば「言明は真である」ということになる。但し、その言明は、草自体とは別個であり、独立している。
 人間の言語的表現から切り離して考えると、真とか偽とかいった概念は、単なる的外れであり、あるいは存在しないか無意味である可能性がある。それゆえローティは、実在との関わりを言葉で考察することをすべて放棄し、代わりに、言葉と別の言葉との関係のみで考察するべきであると主張している。このような立場からローティは、この本で記されている「議論」も不正確なものにならざるを得ないと述べている。なぜなら、その議論の多くは、特定の領域の中で用意されていた言葉を使って行われているものであり、これまでに無かった新しい概念を使うことが妨げられているからである。

 ここまでの内容については、私自身はかなり同意できる。我々は言葉を使って世界を語るが、その言葉は日常生活の利便性に基づいて形成されたものである。ある生活環境においてより精密に区別する必要があれば別の言葉になるし(例えば北極圏に住む人にとってのさまざまな種類の「雪」)、区別する有用性がなければ1つの言葉にまとめられる(例えば日本語における「青信号」と「緑信号」)。
 もっとも、ある言葉が有用であるということは、それなりに自然界の法則を反映している可能性がある。もしこの世界が完全にカオスな状態で刻々と変化しているとすると、いかなる言葉も意味をなさなくなる。そうではなくて、この世界がある程度固定され、量的・質的な差異があってその差異を他者と伝え合うことに有用性があるからこそ言葉が生まれたとも言える。

 言葉と別の言葉との関係のみで議論できる体系としては数学があるが、それもまた、根本的なところでは宇宙や物質が存在するための基本的性質に通じるところがあり、だからこそ、さまざまな分野に応用し、予測や制御を可能にしているとも言える。

 次回に続く。