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【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(8)第1回 近代哲学を葬り去った男(3)対蹠人 2月29日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、 ●100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』 についての感想・考察。 第1回の放送の半ばでは『哲学と自然の鏡』の内容に基づき、『対蹠人』による思考実験が紹介された。ローティは、代表的な哲学者一人一人を批判したが、『対蹠人』はデカルト(1596−1650)批判の中で挙げられたアイデアであるらしい。 デカルトは、確かなものとは何かを確認するために方法的にいろいろなものを「疑う」。すると、疑っても疑っても、疑っている私は無くならない。そういった「疑っている私」が存在している、心などの疑い得ない何かがまずあって、この確実なものの上にいろいろな知識を積み上げていけば「確かな知識」というものを考えることができると論じた。これに対してローティは「デカルトの心は真理に至っていない」と証明するために『対蹠人(たいせきじん)』という思考実験を論じた。概要は以下の通り。
●ボクが黄色と呼んでいる黄色は彼が黄色と呼んでいる色と同じに見えているかどうかは分からないけれど、ボクも彼も「この色と同じ信号の色では注意しなければならない」と分かっていれば、別に生活をしていく上で何の問題もない。 朱喜哲さんは ●「地球人は心があると言っているが本当は無いんじゃないか」という地球人の主張と、「対蹠人は言葉を使っていないだけで、本当は痛みを分かっているはずだ」という対蹠人の主張はどこまでも平行線をたどっており、これは原理的に調停できない。ここで大事なポイントは、「心は何か?」という問いを建てれば問題事が発生するということ。通常のコミュニケーションであれば「こういう状態のことをこう言っているので、こういうことにしておこう」としておき、みんながいちいち科学的に吟味しなければ何も困っていないんじゃないですか、というのがローティの発想のスタート地点。 と解説された。伊集院さんはこれについて、 ●必要ないものをわざわざ「ある」という証明をしようとしたり、「ある」という共有をしようとしているからややこしくなっているだけ、というのはかなり大胆な否定ですよね。 とコメントされた。朱喜哲さんは、 ●【ローティによれば】デカルトは自分の問題に即して、『心』という言葉づかいや『心』という概念を発明したんじゃないか? 誰もに元々あるものを発見したわけではない。 以上をふまえて、私たちの時代に何をすればよいのかを新たに提唱したのが、今回の放送で取り上げられた『偶然性・アイロニー・連帯』であったという。 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、私は文学部3回生の頃には、当時教育学部に着任されたばかりの河合隼雄先生のユング心理学の講義を聴講させていただいたこともあったが、心とか意識を説明概念に用いることはどうしても納得がいかず、ハトを被検体とした選択行動の実験で卒論を提出して以来2018年3月に定年退職するまでずっと徹底的行動主義の考え方を貫いてきた【←『方法論的行動主義』ではない。念のため】。なので、上掲の『地球人vs対蹠人』に関しては、『心』を説明概念として前提にしないという点では地球人よりも対蹠人に近いかもしれない【もっとも行動の原因を脳に還元する立場でもない。念のため】。 でもって私の立場から言わせてもらえば、対蹠人の思考実験は以下のように解釈できる。
いずれにせよ、『対蹠人』の思考実験で取り上げられていた『心』は、もともと存在するものではなく、ある種の言語反応のようなものに過ぎず、心理学の説明概念としては使うべきではないと私は思っている。とはいえ、私たちは同じ地球環境の中で生活しており、生物的にも同じような構造を持っているため、『地球人vs対蹠人』として対比されるほどの根本的な違いは起こりにくい。なので、現に心理療法においても、『心』や『意識』を便宜的な概念として使うことが有用になる可能性もあるとは思う。但しそれは、同じ言語共同体、あるいは共通した価値観を持った組織、宗派、世代などの内部だけで成り立つのであって、その枠の外で起こりうる対立を連帯に変えるためには、やはりローティの提案が必要になってくるのかもしれない。 次回に続く。 |