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自宅のテーブルの上の花。鉢植えのパフィオペディルムのほか、妻の水栽培などがところ狭しと並んでいる。 |
【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(7)第1回 近代哲学を葬り去った男(2)『哲学と自然の鏡』/東洋思想 昨日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、 ●100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』 についての感想・考察。 第1回の放送では『偶然性・アイロニー・連帯』(1989年)に先だって『哲学と自然の鏡(Philosophy and the Mirror of Nature』(1979年)が紹介された。この著書は、当時アメリカの哲学界の頂点であったプリンストン大学の教授にのぼりつめたローティがその絶頂期に発表したものであり、ローティ自身にとっては自信作であったものの、これまでの哲学は葬り去るべきだとの衝撃的な内容を含んでいたこともあって、多くの批判を浴びた。なおウィキペディア日本語版ではこの著書の概要を次のようにまとめている。 スタンフォード大学の教授【出版当時はプリンストン大学?】ローティはネオプラグマティズムの哲学者であり、研究の領域は哲学だけでなく文学や政治、社会にまで及んでいる。彼は現代哲学の観点からこれまでの哲学が担ってきた知的な役割を本書で批判的に検討し、話題を呼んだだけでなく1981年にはマッカーサー賞を受賞している。本書は三部構成となっており、第1部鏡のような人間の本質、第2部鏡に映すこと、第3部哲学から成り立っている。また、英語版では、この著書の影響・批判について、以下のような記述があった。 Philosophy and the Mirror of Nature was seen to be somewhat controversial upon its publication. It had its greatest success outside analytic philosophy, despite its reliance on arguments by Quine and Sellars, and was widely influential in the humanities. It was criticized extensively by many analytic philosophers. 放送では著書のタイトルにも含まれている『鏡』について大ざっぱな説明が行われた。
さて、朱喜哲(ちゅ ひちょる/JU Heechul、大阪大学)さんによれば、ローティのポイントは、哲学が永遠不変の問題を扱っているのではなく、
ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、私自身は学生・院生時代に拝読した『行動理論への招待』(佐藤方哉、1976)の影響を受けており【2016年4月23日の日記、こちらの記事を合わせて参照】、ローティの主張には特に違和感は無かった。 「行動理論への招待」は行動分析学の基本概念の習得に大いに役立ったばかりではない。30数年経った今の私を方向付けてくれる重要な視点を少なくとも3つ含んでいた。 第一の視点は、科学理論とは何かということについての示唆であった。15章「実験行動分析の課題」では、佐藤先生は科学理論について次のように記しておられる。...科学理論には正しい理論とか誤った理論とかの区別があるわけではなく、有効な理論と有効でない理論の区別があるだけなのです。認識とは常に相対的なものなのです(p238)。 もっとも、欧米の研究者にはありがちなことだが、ローティが分析したさまざまな哲学・思想はもっぱら西洋を源流としたものであり、東洋思想には全く言及されていないように思われた。『瞑想でたどる仏教』(2021年11月20日の日記およびそれ以降の連載記事参照)とか、唯識論、老荘思想、...というように東洋には西洋を凌ぐほどの立派な思想があり、それらを無視したまま世界を語るというのでは物足りないところがある。ま、西洋人が大人になってから漢字を学ぶことは殆ど不可能であるゆえ、西洋哲学と東洋思想をすべて包括した道筋を示せすことができるという点では、東洋人のほうが有利であるとは思うのだが、現状はなかなか厳しそうだ(哲学ではなく心理学のほうが、東洋思想を取り入れやすい環境にあるかもしれない)。 次回に続く。 |