じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



02月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

クリックで全体表示。




 自宅のテーブルの上の花。鉢植えのパフィオペディルムのほか、妻の水栽培などがところ狭しと並んでいる。



2024年2月29日(木)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(7)第1回 近代哲学を葬り去った男(2)『哲学と自然の鏡』/東洋思想

 昨日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 第1回の放送では『偶然性・アイロニー・連帯』(1989年)に先だって『哲学と自然の鏡Philosophy and the Mirror of Nature』(1979年)が紹介された。この著書は、当時アメリカの哲学界の頂点であったプリンストン大学の教授にのぼりつめたローティがその絶頂期に発表したものであり、ローティ自身にとっては自信作であったものの、これまでの哲学は葬り去るべきだとの衝撃的な内容を含んでいたこともあって、多くの批判を浴びた。なおウィキペディア日本語版ではこの著書の概要を次のようにまとめている。
スタンフォード大学の教授【出版当時はプリンストン大学?】ローティはネオプラグマティズムの哲学者であり、研究の領域は哲学だけでなく文学や政治、社会にまで及んでいる。彼は現代哲学の観点からこれまでの哲学が担ってきた知的な役割を本書で批判的に検討し、話題を呼んだだけでなく1981年にはマッカーサー賞を受賞している。本書は三部構成となっており、第1部鏡のような人間の本質、第2部鏡に映すこと、第3部哲学から成り立っている。
表題にある自然の鏡とは近代哲学における心、すなわち視覚的メタファーを意味している。自然を忠実に映し出す心という視覚的なメタファーは知識、真理、二元論、主観と客観の図式を哲学の研究においてもたらしてきた。デカルト、ロック、カントなどが論じたような近代哲学の認識論は知識の妥当性を基礎付ける役割を担っており、ローティはこの役割を文化的監督官と呼んでいる。近代哲学が担ってきたこの役割は本来無意味なものであることをローティは指摘し、論理実証主義の立場から研究されてきた言語哲学すらも同様に基礎付け主義の一種であると論じる。ここでローティはプラグマティズムの哲学を導入し、認識活動を社会的実践として把握することによって、「プラグマティズム的転回」を提唱する。このことによって、哲学は完全かつ究極的な認識の合致を追及するものではなく、新しい生のあり方をもたらす会話として成立する。ローティは基礎付け主義という役割が終わることで「ポスト哲学的な文化」が成立するであろうと考えている。
また、英語版では、この著書の影響・批判について、以下のような記述があった。
Philosophy and the Mirror of Nature was seen to be somewhat controversial upon its publication. It had its greatest success outside analytic philosophy, despite its reliance on arguments by Quine and Sellars, and was widely influential in the humanities. It was criticized extensively by many analytic philosophers.

 放送では著書のタイトルにも含まれている『鏡』について大ざっぱな説明が行われた。
  • 『鏡』とは、すでに定まっているものをあるがままに映し出すもの。
  • これまでの哲学者たちは、ありのままの真実を映す鏡のような本質が私たち人間にもともと備わっていて、それによっていつか世界を正確に映し出し、明らかにできると信じてきた。
  • その道筋をつけたのが古代ギリシアを源流とする西洋哲学である。
  • 哲学者の使命は永遠不変の真理を見つけ出すこと。彼らは「なぜ?」に対して理由を述べる、そのまた理由を述べる、それを続けていくと本当に正しい答え、すなわち真理に至れると信じていた。
  • しかしローティは、そうした考えは哲学者たちのただの思い込みでしかなく、多様な意見を1つに押し込めていく行為だと批判した。
 哲学会の会長がそのような衝撃的な主張をしたことについては多くの反発があったという。スタジオでは伊集院さんがローティの主張を「ダイエット協会の会長が突然、痩せなくて健康になれると言い出したようなもの」と喩えておられた。

 さて、朱喜哲(ちゅ ひちょる/JU Heechul、大阪大学)さんによれば、ローティのポイントは、哲学が永遠不変の問題を扱っているのではなく、
  • 古代:関心事は『自然』。万物の起源は何か? 目に見える世界を超えて存在する何かはあるか?
  • 中世:関心事は『神』。神をどうやって理解するか? 信仰と理性はどういう関係にあるのか?
  • 近代:関心事は『人間』。人間は真なる知識を獲得できるか?
というように、時代の流れとともに変わってきた。今の時代であれば、古代の問いは物理学や天文科学、近代の問いは脳科学や認知科学の研究対象となっており、これらを貫いて哲学が同じ問題扱ってきたというのは思い込みではないかと解説された。

 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、私自身は学生・院生時代に拝読した『行動理論への招待』(佐藤方哉、1976)の影響を受けており【2016年4月23日の日記こちらの記事を合わせて参照】、ローティの主張には特に違和感は無かった。
 「行動理論への招待」は行動分析学の基本概念の習得に大いに役立ったばかりではない。30数年経った今の私を方向付けてくれる重要な視点を少なくとも3つ含んでいた。  第一の視点は、科学理論とは何かということについての示唆であった。15章「実験行動分析の課題」では、佐藤先生は科学理論について次のように記しておられる。...科学理論には正しい理論とか誤った理論とかの区別があるわけではなく、有効な理論と有効でない理論の区別があるだけなのです。認識とは常に相対的なものなのです(p238)。
 また、それより少し前の236頁では、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示しておられた。もちろん、自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものであり、人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくというのが、行動分析学的な科学認識であると考えてよいだろう。【以下略】


 もっとも、欧米の研究者にはありがちなことだが、ローティが分析したさまざまな哲学・思想はもっぱら西洋を源流としたものであり、東洋思想には全く言及されていないように思われた。『瞑想でたどる仏教』(2021年11月20日の日記およびそれ以降の連載記事参照)とか、唯識論、老荘思想、...というように東洋には西洋を凌ぐほどの立派な思想があり、それらを無視したまま世界を語るというのでは物足りないところがある。ま、西洋人が大人になってから漢字を学ぶことは殆ど不可能であるゆえ、西洋哲学と東洋思想をすべて包括した道筋を示せすことができるという点では、東洋人のほうが有利であるとは思うのだが、現状はなかなか厳しそうだ(哲学ではなく心理学のほうが、東洋思想を取り入れやすい環境にあるかもしれない)。

 次回に続く。