じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 半田山植物園では椿寒桜が満開となっているが、もう少しあとのソメイヨシノの開花に合わせて、園内のライトアップの準備が進んでいる。


2024年3月8日(金)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(11)第2回 「公私混同」はなぜ悪い?(1)ファイナル・ボキャブラリー
 前日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。今回から第2回の内容に入る。

 放送ではまず、戸田恵子さんから、第1回の内容についての復習があった。
ローティは、古代ギリシアを源流にした人間を1つの本質に押し込める伝統的な哲学を全否定し、私たち人間はみな偶然の産物であると認めることで自己をどんどん変えていくことができると説いた。いっぽうで実社会では、他者と対立し分断を深める事態が後を絶たない。私たちは意見の異なる他者とともに生きながらも、個人としては自己を自由に変え続けていくためにはどんな社会を作るべきなのか?


 続いて講師の朱喜哲さんから、ローティの主張は、以下のようにまとめられると解説された。

人間や社会は、具体的な姿形をとったボキャブラリーである。

この場合の「ボキャブラリー」は、単に言葉というだけでなく、振る舞いなどを含めた広義の言葉づかいを意味している。同じ人でも、言葉づかいは状況によって変わるし、言葉づかいを身に付けるということが1つの人格を作る。状況によって言葉づかいを変えることで別人のように見えてしまうこともあるが、そのうちのどれがホンモノというわけでもない。
 第二部の『アイロニズムと理論』は、「異なった人たちと、どうやって共存し、会話を続けていくことができるか?」をテーマにしている。「アイロニスト」を理解するためのキーワードとなるのが「ファイナル・ボキャブラリー」である。
人間は誰しも、自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。(中略) このような言葉を、その人の「終極の語彙(ファイナル・ヴォキャブラリー)」と呼んでおくことにしよう。【齋籐・山岡・大川訳】

 続くナレーションで、「ファイナル・ボキャブラリー」は次のように定義された。
私たち人間の根幹には、それぞれ自分を支える信念がある。それはまるで、さまざまな言葉の葉をたずさえた樹木のようなものだ。そして私たちは言葉を使うことで自分の信念を正当化しようとする。その語彙を正当化するために別の語彙を使って説明し、また別の語彙を使って説明する。これを繰り返していくと、それ以上は言い換えることが難しい語彙へと辿り着く。ローティはそのような最後の語彙を「ファイナル・ボキャブラリー」と名づけた。
 放送では江戸っ子の「粋」をめぐる夫婦の会話が例示された。妻に「なんで粋が大事なんだ!」と問い詰められると、夫は「だって、これが江戸っ子だから」としか答えられなくなる。この男にとって譲れないプライドが「ファイナル・ボキャブラリー」に相当する。
 しかしローティによれば、アイロニストは、自分のファイナル・ボキャブラリーを絶対だとは思っていない。上掲の夫がアイロニストであれば、合理主義を市場の価値とするナニワのあきんどに接することで、自分自身を疑うかもしれない。ローティは、「本当に正しいかどうかはいつでも変わりうる」と考える人を「アイロニスト」と呼び高く評価した。自分のよすがとも言うべきファイナル・ボキャブラリーであっても、よりよくなる可能性に開かれたものだと考えたことができる、それがより自由に創造的に生きることにつながる。

 朱喜哲さんによれば、「ファイナル・ボキャブラリー」は、「自らの行為・信念・生活を正当化するために最終的に使用する言葉」でありそれたスタート地点ではあるが、自分のファイナル・ボキャブラリーを(他者)に開いて歩み寄ることができるか、ということを考えるために使われる。ファイナル・ボキャブラリーが登場する場面で会話が打ち切られることもあるが、アイロニストの立場をもって臨めば、ある種の信頼関係があれば、自分がこだわっていることではあるが影響を受けてみたり、あえてそれを否定せずに済むようなことができる。




 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、まず、2月27日の日記でウィキペディアの原書の紹介(英文)を閲覧した時には、「final vocabulary」を「究極語彙」と訳したりしていたが、今回の放送により「終極の語彙」が定訳になっているらしいことが分かった。もっとも「究極」であれ「終極」であれ、アイロニストの立場からみれば、そのような名づけ方自体、正確とは言えない。むしろ「暫定語彙」に近いようにも思われた。

 ところで、2月29日に記したように、ローティは、かつて

哲学者の使命は永遠不変の真理を見つけ出すこと。彼らは「なぜ?」に対して理由を述べる、そのまた理由を述べる、それを続けていくと本当に正しい答え、すなわち真理に至れると信じていた。

と考えられていたことを全否定した。そのいっぽうで、個人ごとには「終極の語彙」が存在するという。このことは、万人共通、あるいは宇宙全体に通用するような永遠不変の真理は存在しないが、個人単位では「絶対的真理」のようなものが存在していると言っているようにも見える。しかし、私なんぞもそうだが、そんなに確固たる信念のようなものはどこにも見当たらず、行き当たりばったりで選択している場合もけっこうあるような気がしている。もちろん、いろいろなこだわりや好みがあるとはいえ、絶対に譲れないプライドのようなものがあるかどうかは分からない。
 放送では江戸っ子の「粋」が例示されていたが、あれはむしろ、ある時代のある共同体でみんなが備えていた共通の価値観であって、特定個人の「終極の語彙」にあたるかどうかは何とも言えないように思う。また、(画一的に捉えるのは好ましくないかもしれないが)日本人は西洋人に比べて「和」を重んじる傾向があり、そもそも本音をさらけ出して議論するということは少ないようにも思われる。結婚式や葬式の時なども、自分と異なる宗派の儀式が行われたからといってこだわったりはしない。

 次回に続く。