じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 半田山植物園で『桜まつり』の準備が進んでいる。今年は3月29日〜4月7日まで夜桜ライトアップが行われる予定。昨年は3月25日〜4月3日に設定されており4日早い。昨年は最終日まで見頃となっていたが、今年は的中するだろうか。



2024年3月15日(金)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(12)第2回 「公私混同」はなぜ悪い?(3)公私は両立できるか?/Web日記の公と私

 3月13日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 第2回の放送では『ファイナル・ボキャブラリー』に続いて、本題の「公と私」が解説された。ローティは著書の中で、

公共的な正義を追求することと、私的な関心を追求すること。この2つはどうしたら統一できるのだろうか?(Why is it in one's interest to be just?)

というように問題提起した。それまでの哲学では、公共的なものと私的なものを融合しようという傾向があったが、ローティは、私たちは公と私を両立できるような1つの本質に貫かれた存在ではないと批判し、以下のように論じた。
公共的なものと私的なものとを統一する理論への要求を捨て去り、自己創造への要求と人間の連帯の要求とを、互いに同等ではあるが永遠に共約不可能なものとみなすことに満足すれば、いったいどういうことになるのかを明らかにすることが、本書の試みである。【齋籐・山岡・大川訳】


 放送では公私を区別する一例として、本書とは別の論文に出てくる「バザールとクラブ」が紹介された。バザールで商売をしているある男性にとって、物を売る場は公共空間であり、店を閉めたあとで立ち寄るクラブは私的空間となる。クラブは親密な場所であり、お互いのファイナル・ボキャブラリーをさらけ出して本音でしゃべったり、それを通じて自分を変更に開ける自己創造の可能性がある場所ということになる。ここで重要な点は、公私は両方に価値があるという点。

 私たちの社会では、しばしば「公私」を混ぜた議論が行われる。ここでいう「公私混同」とは、公用の最中に私用を鋏むというような意味ではなく、本来区別して議論すべき公私をまぜこぜにして批判をするようなことである。
 例えば、公共空間で性的描写を含む広告があると、「子どもに悪影響を及ぼす」という批判と「表現の自由は守るべきだ」という主張とのあいだで対立が起こる。しかしそれはどちらかが正しいという議論ではない。私的空間と公共空間の場所を考えるのが大事であり、公共空間で安全が脅かされると考える人がいるのであれば性的広告は出すべきではない。しかしだからといって、そういう性的描写を描いたり見たりすることもダメだとか、私的にそういう欲望を持つことがダメだと言うことにはならない。ローティはむしろそれらの両立を重視している。

 もっとも現実社会では、公私をはっきりと切り分けるのは難しい。政治家が失言すると批判を受けるが、その政治家が失言に反映するような思想を持っていることが問題なのか、それとも公的な場でそのような失言をしてしまったことが問題なのかということになる。ローティの考えでは後者、つまり、オフィシャルな場でそのような失言をしたことが問題となる、朱喜哲さんによれば、「心の底から考え方を変えさせねばならない」と批判をすること自体が窮屈さを生む。人の本音を変えようとするのではない。本音とは矛盾しているかもしれないが、人は公共の場で正しく振る舞う振る舞い方を覚えることができる。そのような公私の切り分けをするのがローティのポイントであるという。

 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくことにするが、以上に取り上げられた公私の切り分けの問題は、このWeb日記を書き始めた頃からの議論されてきた課題でもあった。
 私がWeb日記を書き始めた1997年頃は、まだ『ブログ』という概念は存在せず、そのいっぽうで「日記猿人」だけでも500〜1000前後のWeb日記が登録されていた。それらの一部は読者を想定した読み物であったが、そのいっぽうで私的出来事や想いを綴った日記も数多く存在した(←こちらのリンクにもあるように、今でも続けている人もいる)。
 もともと日記というのは非公開が原則であり、非公開であるがゆえに私的な想いを素直に綴ることが可能であった。そうした固定概念もあって、Web上で日記を公開している人たちには奇異な目が向けられ、週刊誌などで取り上げられたこともあった。
 上掲の「公私」との関連で言えば、実名でWeb日記を公開している人の場合は、現実生活への影響を受けやすいこともあって、私的情報の公開は慎重にならざるを得ないところがあった。いっぽう、匿名の日記のなかには、かなり本音をさらけ出しているものもあったが、これも年々、規制がかかり、犯罪や差別を助長したり、特定個人や団体を誹謗中傷するような記事(←悪徳企業やカルト宗教団体批判など、批判内容が公的な利益をもたらす場合は除く)は、執筆者の同意無しに削除されたりアカウント停止されたりするようになった。
 ということでWeb日記執筆は、ブログ一般と同様、いまでは公共空間での活動という性格が強い。日々私的な想いばかりを綴っていたとしても、不特定多数の目に触れる形で公開している限りは「公」の制約を受けざるを得ない。それが窮屈に感じる場合は、SNS上での「仲間」、「友だち」、「会員」というように読者を限定した上での相互配信のような形式をとるほかはない(もっとも、特に未成年の場合など、そうした「私的空間」の中での議論がエスカレートし、制御不能な極論に達する場合もありうる)。


 次回に続く。