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県道の電光板に“4月7日「御神幸」のため渋滞の恐れ”という表示が出ていた。しかし、私には『御神幸』が何の行事なのかは分からず、渋滞の恐れといってもどこの道路が渋滞するのかさっぱり分からなかった。 ネットで検索したところ、『神幸祭』は各地で行われているようだが、特に『御神幸』として知られるのは4月7日に宗忠神社で行われるこちらの行事であり、
これまでこのことを知らなかったのは、4月上旬は現職時代は新学期の準備などで日曜日も出勤することが多かったため、また定年退職後は妻の実家に帰省していることが多かったためと考えられる。今年は特に予定が無いので、電光板での縁もあり、どこかで見物させていただこうかと思っている。 |
【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(20)第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!(4)オーウェル『1984年』 3月23日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、 ●100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』 についての感想・考察。 放送では全く言及されていなかったが、『偶然性・アイロニー・連帯』では、第7章の『ロリータ』に続いて第8章『ヨーロッパ最後の知識人』でオーウェルの『1984年』(1949年刊行)が取り上げられているという。放送内容から外れるが、これを機会に備忘録として記しておくことにする。 ウィキペディアによれば、この作品は、一般には、 出版当初から冷戦下の英米で爆発的に売れ、同じくオーウェルが著した『動物農場』やケストラーの『真昼の暗黒』などとともに反全体主義、反共産主義、反集産主義のバイブルとなった。また資本主義国における政府の監視、検閲、権威主義を批判する文脈でも本作がよく引用される。として知られているようだが、ローティの視点はこれとは異なっていたようである。 こちらの解説動画によれば、『1984年』は以下のように特徴づけられる。
解説動画によれば、オブライエンもローティも同じアイロニストという点で似ている。要するに、真理は発見されるのではなく作られる。人々の信念の整合的な合意が「真理」であると考えたり、人間の本性なるものなど存在しないと考えている点では共通している。リベラル・アイロニストと異なり、アイロニストは足を踏み外すときわめて残酷なことが起こる。第8章の『ヨーロッパ最後の知識人』というタイトルの通り、ローティはオブライエンをヨーロッパ最後の知識人に見立てており、リベラルな希望が終わる時にアイロニーがとることのできる唯一の仕方でアイロニーを体現する人物がオブライエンだと指摘しているという。『1984年』を読んだ人の中には「私はこんな風にはならない【←オブライエンのようにもウィンストンのようにもならない?】」とか「精神内面の自由がある」とか「私たちは自律的に生きられる」と思った人もいるかもしれないが、それらは幻想かもしれない。私たちは自由に思考できていないかもしれない。いとも簡単に自己のアイデンティティ、自律を失うかもしれない、こういった恐ろしさを教えてくれるのが『1984年』であると解説されていた。 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、私自身は行動分析学にどっぷり浸かっていることもあって、そもそも人間に絶対的な自由などはあり得ないと考えてきた。スキナーが言うように、われわれが自由だと感じるのは、行動が正の強化(好子出現の随伴性)で強化されているからであり、逆に嫌子消失の随伴性(逃避)、嫌子出現阻止の随伴性、好子消失阻止の随伴性で強化されているときは「義務的、強制的にやらされている」と感じる。また行動しても何も変わらない時は無強化や消去の事態となり「やってもムダだ」「もうダメだ」という無力感を感じる。とはいえ、これらは直接効果的な随伴性で行動が強化されている場合のことである。他の動物と異なり、人間はルール支配行動で行動を続けることもできる。そのルールは信念とも呼ばれることがあるが、ルールの内部が明らかに不整合であった場合、気まぐれのように見える行動をとる場合もある。 ルール支配行動では、他者による称賛や激励が大きな役割を果たす。もちろん、自然の法則に反するような行動は結果として強化されにくく消去されてしまう傾向にあるが、中には迷信や風習のように共同体の中で正しいと信じられて受け継がれていくものもある。 なお「2+2=4」か「2+2=5」かという問題は、共同体の中の合意や調停で作られるものではないと思う。指を4本立てた時に「これは4」、5本立てた時に「これは5」と定義した上で、両手で2本ずつ指を立てた時の本数を問われればやはり「4」だと答えるほかはない。もちろん、数学的にはペアノの公理のように体系化する必要はあるが、実用的に見たとしても、リンゴを5個欲しい人が1皿2個だから2皿あれば合計5個になると買い物したら1個足りないことに気づくのは明白であろう。おそらく(リベラルでない)アイロニストの残酷さというのは、実験・観察あるいは史実だけではなかなか反証できないような主張、例えば国家観とか幸福感のようなものを言うのではないかと思われる。 次回に続く。 |